論点

□マルティン・ハイデガー論
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†小林秀雄とハイデガー

─小林秀雄の批評について、私には永いことよく解らない点が残っている。私に解らない点というのは、彼の立っている場所はどこかということである。小林秀雄とは一体、何をやった人物なのか。これまで私はこの問題について、幾らかの考えを費やして来た。そしてその結果、小林の批評について、鍵となる概念を掴み出すことができた。「ありのまま」という言葉である。「マルクスの悟達」の中で小林がレーニンの言葉を引きながら、書いている言葉がある。これである。

《さて以上のレニンの短文を約言すればこの世はあるがままにあり、他にありようはない、この世があるがままであるという事に驚かぬ精神は貧困した精神であるという事である。》

─私はこの文中に小林の批評の動かせない方法があると直感した。小林の方法とは、己の意識や心の生理や欲望に忠実であることを、その方法にする批評ではないか、というのがその答えである。─同時に、そのことが、小林の方法の問題を私に感じさせることになった。小林の批評は己の方法をもう一度改めて検討する段階が欠けているのではないかということだ。或は小林にとっては、己への反省的な意識を脱-構築することが既に為されていて、必要なかった。

そのことがしかし、後年、柄谷行人などから、〈日本的自然〉への回帰として批判を浴びる結果にもなっている。小林が何故にあの場所から動こうとしなかったのかはそれ自体がひとつの謎だと言っていい。恐らく、小林にとって、あのような場所に固執することが己の批評の根幹となっていた。それだけが今はたしかに言えることなのである。

 正確には、「様々なる意匠」において、既に小林は己の批評の主題について、内部を血球とともに巡るもの、という概念を取り出している。それは、「マルクスの悟達」で語られた「あるがまま」への眼差しに似て、作家の意識世界へ赴き、そこでその宿命を取り出すであろうという批評の高らかな宣言であった。そこには今改めて考えれば、現象学や現象学的還元にも通ずる事象そのものへ肉薄する意志さえ感じられる。小林の批評はそこからどこへ向かったか、というのは小林秀雄の批評において、それへの評価を左右する問題である。小林は、晩年になるほど、「あるがまま」を反省的に捉え返すことから離れていったのではあるまいか。先の喩えで言い換えれば、自己や他人の自然を反省的に捉え返す作業から距離を置くようになった。もしも停滞があるとすれば、そこに起因するに違いない。

─たまたま、ハイデガーの「根拠の本質について」の註を読んでいて、小林のことを思い出した。オンティッシュとオントロギッシュの違いについてハイデガーが説明している箇所である。

《ひとが「外的世界の実在性」に賛成することに依っては、ひとは未だなおオントロギッシュに方向を定めているのではない。それにも拘わらず「オントロギッシュ」とは―通俗-哲学的意味に於て受け取られるならば―次のことを意味しており―そしてそのことのうちに度し難い混乱が告知されているのである―すなわち、そのこととは、寧ろオンティッシュと名づけられねばならないことであり、すなわち有るものをそのもの自身に於て、それがそれであり且つそれがそうである通りに、あらしめている態度ということである。

しかしそのことを以てしては、未だなお有の問題は立てられてはいないのであり、いわんやオントロギーを可能にするための基礎は獲得されていないのである。》(ハイデガー全集第9巻『道標』辻村公一訳P.165創文社)

─小林の批評の方法がオンティッシュ(物事や己の形をありのままに表すこと)な方向にいつしか収斂していき、オントロギッシュ(オンティッシュな世界がいかにして立てられているかを超越論的に解明すること)な問いから距離を置き始めたこと、同時に当初の鋭利さを失ったであろうこと、その事実をハイデガーの記述は思い出させてくれた。
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