論点

□尾崎豊論
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†2005年の尾崎豊 1

─尾崎豊とは誰だったのかという問いの行方はいまだ闇に閉ざされているかに見える。80年代初頭にデヴューし、10代の若者を中心に圧倒的な支持を集め、1992年に謎の死を遂げた尾崎豊。彼の曲は多分今も多くの若者の心を捉らえて離さない。
─しかし、彼がやったこととは一体何だったか。これについては今だに論が分かれているかにも見える。様々な論の中に、ひときわ輝きを放っているように見えるのは、例えば吉岡忍や、尾崎のよきバートナーだった須藤晃のような、いわゆる団塊の世代の人々の論である。須藤の論は尾崎の死後に刊行された著書『時間がなければ自由もない』によく描かれている。須藤にとっての尾崎豊は、一般ファンから見た尾崎を更に文学的に深化させた存在だったようだ。須藤による尾崎論の中の重心は、一言で言うと、〈分裂の止揚〉という概念に尽きるように思える。人間が生きる先々で味わう分裂。なりたい自分とそうでない自分。須藤から見た尾崎は、須藤が日常の中で生きている分裂を、更に熾烈に生きている、そうして、それを過激に突破しようとする兵士であった。これは我々聞き手が尾崎に感じていたイメージとも被さってくる。そんなイメージだ。

─ノンフィクション・ライター吉岡忍の本『放熱の行方』は力作であった。吉岡は尾崎の生誕から死までを、同時代の政治・社会状況と絡めながら、丹念に描いた。尾崎がスタート地点で持っていた、他人との関わり・対話をいつしか失い、自己の中に閉じこもって、その結果、散漫な曲を作るようになり、自滅して行った姿を克明に綴っている。何よりも吉岡の功績は、尾崎の妻の繁美を始めとして、パートナーだった須藤や仕事上尾崎と同じ現場にいた人々からの証言を数多く集めたことだろう。これにより、我々受けてが抱いていた尾崎の姿が、マスコミやメディアによってかなり隠蔽されたものであったことをも白日の下に吉岡は晒した。以前、TVの尾崎特集でもチラと流れた彼のわがままな姿、現場の雰囲気を凍りつかせる思いやりに欠けた姿、それらに吉岡は、更なる膨大な補足をしてくれたことになる。事実と異なる幻想は壊れた方がいいと私は思っているので、吉岡がこんしんの力で書いた尾崎の真実は、他の幾多のライターのものよりも、遥かに優れたものであったことは付け加えておきたい。

─だが、吉岡の長大な作品を辿っていても、私には不満が残らない訳ではなかった。吉岡の作品でも、確かに学校問題において尾崎の曲が果たした意味は拾い描かれている。しかし、吉岡はそこのみに視点を限定せず、更に広い視点から論じようとする。そのことが、逆に尾崎の曲の意味を拡散させたと思える。尾崎の初期の作品に残された様々な風景は、実は吉岡が拾った以上の意味があったのではないか。それを私は感じている。それを私に直感させたのは社会学者の宮台真司の分析であった。彼は80年代以降の日本社会に顕著な現象として、《学校化が広がり、家族や地域共同体をも支配する。その結果、家庭には子どもの居場所はなくなり、子どもの生息する場所は自分の勉強部屋か、もしくは都市の様々な空間に移行した》という意味合いの指摘をしている。その場合、学校化の背景には60年代の団地化による地域共同体の崩壊、村的な横のつながりの崩壊、その結果としての価値の空洞化があったとしている。価値の空洞化、何が大事なのかを喪失した日本人達は、価値を高学歴や高収入、一流会社といった記号に求め、一方、失われた地域共同体の役割を学校に担わせるようになった。
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