論点

□どこからハイデガーへ入ったか
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 きっと私は、何故私は私という苦痛を背負って生きなければならないのか、無意識のうちに疑問を抱いていた。物語の中の森展子が、やはり家族に受けた心的外傷を隠したまま、また、家族への憎悪を隠したまま、放浪する姿に、私は自分に似た何かを見いだしていた。 何よりもその漫画は、それまで私に誰も教えてはくれなかった、人間という存在の不可解さを鮮烈に印象づけた。私自身が不可解なのは当然のこと、そもそも人間という存在自体が不可解なものだ、ということ、不可解な謎に満ちていることをその作品は私に告げた。私という存在の不可解さをその漫画は、人間という存在の不可解さに重ねた。人間には、他人からみて理解不可能にみえる何かを、共約できない何かを秘めている、という認識がその辺から生まれてきた。その謎とは一体何なのか、どのように考えればよいのか、という主題が残された。それはまた、私は私自身という存在の解らなさをどう捉まえればよいのか、という問いとも重なっていた。私の中に、そのような問いが長い間残ることになった。それは、私の生という不条理をどう考えるのか、という問いでもあったろう。付きまとう対人的不安定と一緒に生きなければならない生、その馬鹿らしくも愚かな生をどう考えたらよいのか、と。

 《…は〜である》《…がある》といった文法の中の《ある》という言明に歴史が刻まれている。歴史とはその個人の歴史であり、その個人の生まれた背景としての家族であり、また、家族の形成された背景としての共同体、国家などである。ハイデガーの論にはそのような歴史への眼差しがある。それは社会科が教える歴史などという、自己とかけ離れた代物でなく、嫌が応でも自己に刻み付けられたものだ。私が語る言葉にそれは刻み付けられている。詰まる所私とは、そのような存在なのだ。そのようにして私は歴史に呪縛されているのだ。ハイデガーが私に教えてくれたのはそのような認識だと言える。

 ハイデガーの言う本来的存在とは何か、私にも解らないところがある。しかし、私が読み取った限りでこう言える、と思えるところを書いてみよう。
 主著と言われている『有と時』(『存在と時間』ともいう)で、ハイデガーは本来的存在について、非‐公共的解釈性という説明の仕方を採っている。それはようするに、人間が社会や国家として、つまりは公共的な場面でのモノの見方に拘束されている、その拘束を超脱し、己の想いにひたすら忠実な存在を目がけて決断し、選び取ることだと言って良いと思う。公共的な解釈に対して反旗を翻してただひたすらに己の想いを目がける解釈はそれを奪取する際に暴力的になる、とも書いている。それはまた、己の奥深くに宿る神に忠誠を誓うことにおいて神学的でもある。
 ハイデガーの言う本来性とは、したがって、未知なる故郷への帰郷だ、とも言える。初期のハイデガーはこの〈故郷〉について、些か楽観的に考えていた節がある。ナチスドイツへ期待をしていたのもその楽天性の表れだろう。しかし、ナチスドイツもまた、人間の本来性を実現するものではないと途中、気付いてからは、いっそうの思索の深化に努めるようになったようだ。
 人間という存在と帰郷。ハイデガーの提起した本来的存在を考えるとき、未知なる故郷、という概念が鍵になる気がする。
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