論点

□ハイデガーフォーラム第一回大会
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 実は古荘氏の講演が私にはもっとも解りにくい話であった。リアルタイムで聴いて解りにくかったし、こうして原稿を辿り直してみて、やはり解りにくい話だという感想は起こってきた。
 私が解りにくかった理由として、まず古荘氏が引用していた『哲学への寄与』を私がさほど読み込んでいなかったことがある。しかし、解りにくい理由はそれだけではない、と当の『哲学への寄与』を後から辿り直してみて、分かってきた。つまり、簡単に言えば、氏は『哲学への寄与』での語彙の意味を取り違えて自分の立論に取り入れていた、と分かってきた。どういうことか。
 まず講演冒頭に《ハイデガーの哲学的企図の核心は、「在るものは在る」という事実を、ある没根拠の原事実として、了解する道を模索することのうちにあった。》と氏はしている。
 まず「在るものは在る」の同語反復だが、ハイデガーのうちにこの命題への問いがあるのは確かである。 しかし、それはそれへの問いを封印させるものでなく、むしろ始まりとして位置付けられるものである。そこは重要で、あたかもあの命題こそがハイデガーの思索の結論であるかのような外見を氏の講演の冒頭は示したので、私には異和感があったし、面食らわされた。ちなみにハイデガーは氏が何度か講演で引用していた『哲学への寄与』で、かの命題について次のように書いている。
《この「命題」は、直接には何も言っていない。(…)
 それとは逆に、その命題が、有が本質現成する、という真理の領域に突き入るなら、それは、有るものは有の本質現成に属す、ということを言うのである。そして今やその命題は、無思慮な自明性から問いに値することへと移行しているのである。
 この命題は言い示し得ることにおける最後のものでなく、問い得ることにおける最も暫定的〔前走的〕なものである、ということが示されている。》(『哲学への寄与』日本版288頁)
 このように、ハイデガー自身のテクストを辿ると、「在るものは在る」は、思索の前奏ではあれ、そこに到ればそれで完了という意味はないと位置付けられることは明らかだと思える。無論、この命題を取り上げることにまったく意義がないことをそれは意味しない。私は当の命題は思索の始まりとして多大な謎を帯びており、考察の価値があると考えている。しかし、この講演の中での古荘氏は、思索の始まりというよりは、かの命題こそ「ハイデガーの哲学的企図の核心」と位置付けている。そこは氏の論述の出発点だが、私には頷けないものであった。
 かの命題への意味付けもそうだが、古荘氏は存在への根拠付けがいつしか操作可能性へ変質することを恐れてか、ハイデガーにおける現有(「〜がある」「〜である」として有が現に了解されている場。人間のこと)の構造分析の方面を捨象し、哲学の超脱こそがハイデガーの根本主題であったかのように方向づけたかった、と私には思える。古荘氏が引用するテクストを、一見辿るとそれは正当にもみえる。しかし、氏が引用していた、例えば《底無しの深淵Ab-grundが、根拠Grundの根源的な本質現成である。》でも、この文だけでは見えにくいが、主観の無根拠を言いたいわけではないのは明らかなのである。それは『哲学への寄与』の、古荘氏が引用する箇所のもっと前、「X基づけ」の中の「C真理の本質」を辿るとよく解る。そこをみると、人間がさまざまな事柄を言葉にし、意識し、引き寄せ、または引き寄せられるその雑多な、或いは重大な事象は、むしろ主観の真理を〈覆蔵〉するために収蔵されてゆくのであり、よって真理とはこの〈覆蔵〉を〈解除〉する〈非‐覆蔵〉なのである、しかしながら、〈非‐覆蔵〉はそれのみ取り出されるべきではなく、あくまでも〈覆蔵〉の〈非〉として捉えられるべきである。そこに、〈底無しの深淵〉が現れる。よって、〈底無しの深淵〉とは、主観の無根拠を表す用語ではなく、ただ、その場合の根拠=真理が、いかなる有るものでもないことから(なぜならば、それは気分もしくは情態性であるから)、〈底無しの深淵〉という言い方が相応しい、といったことが言われていることは読取り可能なのである。つまり、《底無しの深淵》だからといって、それは氏の書いているような、「没根拠」を意味はしないのである。そのことは、『哲学への寄与』日本版419頁にはっきりとハイデガー自身により言明されている。そこにはこう書いてある。《底‐無しの深淵の開けは無根拠的ではない。底‐無しの深淵は、無根拠性のようにあらゆる根拠に対する否ではなくて、根拠の覆蔵された広さと遠さに関して言われる、根拠への然りである。》そこを古荘氏は読み取ることに失敗している。氏の講演が孕んでいる論証の危うさはその読取りの危うさに起因している。
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