論点

□吉本隆明論
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§『心的現象論』の射程について

 『週刊読書人』最新号(2007/6/15号)で吉本隆明は『心的現象論』について2頁にわたりインタビューに応じている。

 そこで印象的だった発言として次のような、2頁目での発言がある。

《文明が発達すると、文化的、精神的に、人間は発達するという考えも怪しいわけです。かえって退歩している部分もあると思いますね。そういうことすらまだわかっていない。

われわれが宗教と言ってるものも、もっと(人類史のごく小部分より)以前から考えなければならない。ヨーロッパの方はそれをよく考えていますね。日本でいうと中沢新一さんみたいな人が、向こうにはたくさんいます。

ぼくらが現代の考えで、神秘的だとか、超能力だとか、迷信だとか言っていることも、ある部分はそうじゃないですね。》

 それから最後の方で、イメージ論、異常性、妄想論を人類史における起源との関わりで考えてみたい、とも語っている。

 そこで吉本が文明の発達が精神の退歩と両立する、と語っていることは大変興味深い。具体的にはアフリカ的段階、人間が自然にたいして神性をみ、それと交感するようになる、てことと繋がるのだろうが、吉本のそのような言説を辿っていて、僕は1990年代以降の凶悪犯罪の推移を連想した。

 サリン事件、酒鬼薔薇事件、それからごく最近の福島での母親殺し等である。

 それらへの一般的対応としては、“狂気である”“退行である”“異常である”というのがあるわけだが、しかし、そこにもしかしたら文明史的な意味を探ることはできるのかもしれない。或いは吉本的に云うならば文明と精神の関係である。

 で、またここでもう一つ思い出す作品としてハイデガーの最も謎めいた作品といわれる『哲学への寄与』(1930年代後半に執筆された)がある。そこにハイデガーはこう書いている。

《純粋な拒絶の過剰として。「無」が純粋であればあるほど、有はますます単純である。》(創文社版262頁)

《「無」のこのような「否定的な」規定は、「有」という最も普遍的でかつ空虚な対象概念に関係づけられるなら、なるほど「最も虚無的なもの」である。それに対しては誰もがすぐに、また容易に、嫌悪感をもよおす。》(同263頁)

《しかし、有それ自体が(有るものから)脱去するものであり、拒絶として本質現成するのだとすれば、どうであろうか。この拒絶は虚無的なものなのであろうか。それとも最高の贈与であろうか。》(同263頁)

 そこで、近代的理性からすれば文明への拒絶や退廃でしかないもの、それがもしかすると、起源からすると贈与である。そのような逆説が成り立つことになる。また、その逆説は、文明が不可避ならば同様に不可避なものだといえるかもしれない。

 このような史観が『心的現象論』に孕まれている可能性は高い。それは現代日本の知識人の発言として未曾有なものだろう。また、そこに何を見出だせるのかはまだ未知だと言わなければならない。吉本自身、まだ全てにおいて解ったとは言えない、と語っている。しかし、『心的現象論』に孕まれている問いかけとして、上記の事柄はひとまず提出できるのではなかろうか。そう僕には思える。
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