論点

□オウム真理教論考
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†今、オウム真理教を考える。

 麻原の著書にはヨーガ修行、また仏教修行者の洞察が豊富にある。それは現世での苦に突き当たり、苦悶する人々に一筋の道をもたらしたに違いない。オウムの集った人々が、麻原から離れられなかったのには麻原からしか聞けなかった苦への対処法があったからだろう。自分は間違って生まれたのではないか、と疑っている人間に、あとは自殺するか、前世へまで遡って生き直すか、2つに一つしか道はない、と思えたとしても不思議はない。麻原は解脱という方法で、自殺しない方途を示した。他に行き場のなかった人々が、麻原に縋った、そのこと自体には罪はない。
 
 問題は、導師という高い境地に従う他ないその主従関係を、悪用された場合、弟子には打つ手はない。麻原には高い境地と、アナーキーというしかない唯我独尊、との対照的な姿がある。

 オウムの教義は、現世とは超脱するべき、とする視点しかないような気がする。解脱思想というものを、もう一段、相対化出来るならば、つまり、絶対空というか、そのような場所から眺めることが出来るならば、オウムの教義さえが執着の、愛の一形態だということになるならば、それさえが超脱の対象になる。そのときオウムの教義が現世と折り合いを付ける道は拓けるように思える。それは現世に、只の人として埋もれてゆくということでもある。そうでないならば、名称が変わっても、内実は変わってないのと同じことになるのではなかろうか。
(2008.6.13)
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