A

□漆
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「いやぁ、綺麗な桜ですねぇ」
『…そうだね』



あたたかい風と、華やかな色の視界で、私はただ立っていた。
何かを見ていたとか、聞いていたとか、特に無かったけれど…此処の空気だけは、好きだった。



「そういえば、」
『なに?』
「金禪が探していましたよ」
『…暫くしたら行く』



天界と云えど、此処だけは違うと思っていた。
そう思っていたかった。
此処にいれば、自分が誰だとか知る必要が無いと想えたから。



「…鵺依は此処が好きですよね」
『桜が綺麗に咲いてるから』
「此処の桜は無知ですよ」

『……天蓬?』



此処にいる時は、何も考えたくない。



「貴女の住んでいた世界のように何事からも目を逸らさずに咲く桜は…もっと意味のあるものに感じます。」
『桜は動かないからね』
「えぇ。ですが…此処の桜は、此処の世界は…面倒な事や、彼等が決めた物事しか無い場所ですから」
『……だから?』
「きっと、耐えられません」
『…何、に?』



それは、天蓬も知っている筈なのに。



「“何か”です」
『何か…』



彼は話し続ける。



「それに抗おうとする者達からの、何かです」



面と向かって、その話をするという事は、天蓬の中で何を言いたいのは明確な筈。
それを敢えて、曖昧にしているのは…その何かは、私の事を指しているからなのかもしれない。



「鵺依、」
『…はい』
「独りで、何かをしようと思わないでください。僕達はいつも、傍にいますから」

『天蓬は…』



私はいつか下界に帰る。
囚われの身となっている一族を取り戻して、私は下界に帰る。

例え、それが天蓬達と別れる事になっても構わない。


今はまだ…彼等にそこまでの気持ちは無い筈だから。



『優しいんだね』
「いいえ。僕の我儘ですよ」
『我儘、ね』



別れの時は、きっとすぐ近くにある筈。
でもそれは全ての終わりじゃない。

だから、早く…



「そうですよ。僕は、笑っていて欲しいんです」



早く、終わりにしたい。

そうしなければ…私は、考えてしまう。
今の自分にとっての、幸せな場所。



『それは、』



此処にいたい、なんて思ってない。
想う筈がない。



「…それにしても、綺麗な桜ですね」

『……そう、だね…』



私は、ただ戦う為に此処にいる。



『桜は…いいね…』



彼の想いも、あの人の想いも、
私の想いも、何も無い。

時がゆっくりと流れ、下界よりも長く咲くこの桜を私はただ、見ていただけ。









  

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