屍的、人生の送り方
□零話目
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話の始まりを告げたのは、電車の騒音と、母の悲鳴だった。
もっと詳しく言うと、8月の夏休み、私は家の近くを走る電車の騒音と、ゴキブリを見つけた母の悲鳴で、目を覚ました。
ちなみに、今朝の騒音は窓が開いていたこともありいつもより大きくうるさかったし、母の悲鳴はゴキブリでも逃げてしまうんじゃないかってくらいに甲高く、耳障りなモノだ。騒音も悲鳴も、耳にしたのは今朝が始めてだった。どちらも、≪公害≫と呼んでも差し支えないレベルのモノだった。
薄目を開けて、枕元の携帯電話を開いた。午前九時を少し過ぎていた。いつもは補習があり、学校へ行っている時間だった。七月が終わり、前期の補習が終わったので、今日からは学校へ行かず、久し振りに時間を気にせずに昼まで寝るつもりだったのだ。薄目を閉じて、胸の中で呟いた。
―神様、お願いですから、この不快な音を消して、また眠りにつかせて下さい。
祈りは届かず、騒音と悲鳴は激しさを増した。
神様なんていない。サンタだっていない。奇跡だって起きない。分かってる。私はもう十八歳なんだから。
それにしても、悲鳴は長かった。ゴキブリくらい、母は仕留めることができるだろう。鬱陶しさと、母を心配する気持ちで目を開けて、ベッドから上半身を起こす。
さぁ、三時間遅れの一日を始めよう。
顔を洗い、髪をとかし、服を着て、二階の部屋から一階のダイニングに向かい、ヨーグルトを食べ、野菜ジュースを一杯飲んだあと、洗面所に向かった。
歯磨きをしようと洗面所に入ると、母が洗濯機の下に殺虫剤をかけていた。私が後ろから背中を叩くと、ビクッと体を震わせ、脅かさないでよ、と眉をひそめた。
「今日から休みでしょ。もう少し寝てたらいいのに」
文句を言おうかどうか迷ったが、めんどくさい、が勝ってしまった。
「ちょっと出掛けてくるね」
「どこ行くの?」
「古本屋で感想文の本買ってくる」
「そうなの。ちゃんと歯磨きしてから行きなさいよ」
笑って言った母に、今からするつもりだったんだよ、と歯ブラシを見せる。
「わかってるなら良いのよ」
それだけ言うと母は殺虫剤を片手にリビングの方に行ってしまった。
母がいなくなったので、手に持った歯ブラシを水で濡らし、歯磨き粉を少しつけて歯磨きを始めた。途中、何度か血の味がしたけど気にしないように、歯磨きを終えた。
「いってきまーす」
玄関で靴を履いて、自転車の鍵を持ち、忘れ物がないか確認してから家を出た。
玄関を開けた瞬間に聞こえてくるのは、電車と新幹線の騒音と、蝉の鳴き声。暑い日差しと騒音に夏を感じて、自転車をこいで古本屋に向かった。
変な鼻歌を歌っていたら、案外早く、古本屋に着いた。どんな本で書こうか悩んだけど、結局、感想文に関係ない本ばかり買うことにした。好きなジャンルだと感想文が書けないのは分かっていたが、やっぱり欲しいモノを欲しいだけ、が私の買い物だ。
本を買って店から出ると、携帯電話にメールが届いていた。母から帰りに買い物して来て、と商品名がたくさん書かれたメールだった。仕方ないので、薬店に寄って買い物をした。荷物の量が大変なことになっていたので、迎えを呼ぼうか迷ったが、頼まれたものだ、頑張って帰ることに決めた。
バランスを崩さないように、スピードを出して自転車をこぐ。
いま、自分の中で一番お手伝いをしていると思うと、すこし嬉しくなった。
家まで半分の距離になったので、自転車のスピードを緩めて、自転車を倒さないように降りた。もうすぐ帰るから、昼食の用意しておいて。とメールを打って、また自転車に乗った。また、変な鼻歌を歌って線路沿いに自転車をこぎだす。
私は知らなかったのだ。
これから先、ほんの少しどころか、私を取り巻く世界ががらりと変わってしまうことを。
母が昼食の支度を始めた頃には、私が死んでしまっていることも。
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