氷帝

□忘れた愛は、戻らない
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名前さんが三年になる少し前。
彼女の大阪への転校が決まった。

親の転勤。

よくある理由で。
だから、文句や我が儘は言えなかった。
言ったら名前さんを困らせただろうし、何より事情が事情だった。
そして、名前さんが転校したことを境に俺は更にテニスに打ち込むようになった。

名前さんがいない寂しさを埋めようとして…。



忘れた愛は、戻らない


休日、ピアノを弾いていると携帯が鳴った。
名前さん専用にと、設定したものだ。


「もしもし」
『長太郎…』


電話越しの名前さんの声。
それは何だかとても暗くて。


「どうしたんですか?何だか、元気ないみたいですけど」


気付けばよかった。
何で、元気がなかったのかということに。


『ねぇ、長太郎…』


そうすれば、


『昨日…何の日か、覚えてる…?』


最悪のシナリオを迎えずに済んだだろうに。


「昨日ですか?……何かありましたか?」
『……。覚えて、ないんだね』
「名前さん?」

『あたしと別れて。長太郎』


ひどく悲しそうな声が、耳に響いた。
突然の申し出に頭が上手く回らない。


「名前さん…?一体どういうことですか…?」
『昨日、付き合って…一年経ったの…』
「!!」


すっかり…忘れてた。
昨日が大事な、記念日だということを。


「名前さん!俺はっ…!」
『もういい。…別れて。あたし、もう長太郎のこと好きじゃ、ないの』


名前さんの、やたら冷静な声が聞こえた。
もう、決心は固いんですか?
もう、元には戻れないんですか?


「……判りました。別れましょう」
『…そう。バイバイ…長太郎』


プツッと音を立てて切れたのは、電話だったのか、名前さんとの関係だったのか。
あるいは、その両方だったのかもしれない。
ただ忘れてはいけないことを忘れたのは、俺だ。

だから、愛想を尽かされて当然。

そう理解したはずなのに、どうしようもなく後悔した。
もう、何の音も立ていない携帯を握り締めて。
止まらないんじゃないかってくらい涙が出た。

ごめんなさい、名前。

もう届くこともない謝罪が脳内を占めた。



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