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□スタートライン@
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「大地」

制するように名前を呼ばれて、俺は差し伸べかけた手を止めた。

「…俺、もう、投げたくない」






その日は、タイさんの引退式だった。
放課後、買っておいた大量のジュースや菓子類を部室の机に並べて、タイさんを呼び入れて、夜までみんなで騒いだ。引退式なんて形式ばった言い方よりも雰囲気はずっと明るくて楽しい感じで、それは最初の挨拶でタイさんが「今更ジメジメしたのはよそうぜ」と言ったからだった。
タイさんをみんなで囲むようにして、食べて、飲んで、笑った。取るに足らないような思い出とか、ちょっとした笑い話なんかを言い合っては、いつもよりも大げさに笑い声をあげた。
狭くて埃っぽい部室も、今日だけは特別な空間のように思えた。
それは、今ここに、タイさんがいるからだ。

気づけば壁にかかった時計は9時を回っていて、蛍光灯の光が煌々と漏れている部室は見回りの先生にソッコーで見つかってしまった。五十代半ばのメタボリックな先生が、腕を振り回しながら俺たちに早く帰れと怒鳴った。タイさんと新部長である沢村先輩が即座に、あと十分で帰ります、ホントにすんません!!とほぼ同時に頭を下げた。すると先生はブツブツ言いながら大股に去っていった。校舎へ向かうその大きな影を目で追いながら、代替わりして早速目ぇ付けられちまったかなー、と呟くタイさんに向かって、沢村先輩が苦笑いを浮かべていた。

全員で慌てて部室を片付けて、余った菓子類の半分をタイさんにプレゼントし、残りの半分をジャンケンで分配する(最初はタイさんに全部あげようとしたけど、タイさんがお前らももらっとけ、って言ってくれたから)。
そうして全てが済むと、全員が自然とタイさんの周りに集まっていた。校舎の光も届かない、暗いグラウンドの隅。現役の顔をぐるりと見回してから、タイさんが口を開いた。

「…今日は、本当にありがとうな。明日からまた、頑張れよ」

ハイッ、と八人の声がきれいにそろって、体育系らしい返事が夜のグラウンドに響いた。慌てて口をふさぎ、顔を見合わせる。そんな俺たちを見て、タイさんがプッと小さくふき出した。

まだ、この空間にいたい。

そう思ったのはきっと、俺だけじゃない。
でもまた先生に見つかったら、今度こそ大目玉だ。

「んじゃな。お前たちも早く帰れよー」

名残惜しそうな俺たちの空気を読み取ったのか、タイさんがそう言って誰よりも先にグラウンドに背を向けた。そんなタイさんの後ろ姿を見送ってから、現役もチラホラと校門に向かって歩き出す。
その場に突っ立ったまま、タイさんが消えた方の暗闇をボンヤリ眺めていた俺に、杉が帰るぞ、と声をかけた。うん、と答えて既に数歩先を行く杉を追う。

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