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□スタートラインC
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「…え」

空中停止した右手が、俺と先輩の間で進むことも引き下がることもできずにいる。

「今、何て」


“投げたくない”

それは、イッチャン先輩の口から初めて聞く否定の言葉だった。
俺たちの日常生活のほとんどを占めている野球を、拒否する言葉。


なんで、どうして。


俺の頭にはそれしか浮かんでこない。
けれどその直接的な疑問は、のどに引っかかって声にはならなかった。

「…突然、どうしたんすか」

代わりに、遠まわしな別のセリフが口をつく。

「っ…突然じゃねーよ」

すると間髪をいれずに、イラッとしたような声が返ってきた。

「…最初、から」

先輩が、消え入りそうな声で付け足す。
言葉の最後は本当に微かだったけれど、この静寂の中ではそんな小さな声さえもはっきりと耳に届いた。


『きっと先輩だって辛いだろーから、早く何とかしてやれよ』


さっき歩きながら杉から言われたことが、浮かんで消えた。


ヤバい。

頭が本当に、真っ白になってきた。




何も考えられなくてしばらく呆然としていると、イッチャン先輩が突然立ち上がった。
俺はその勢いに思わず尻餅をつく。
ここへ来てから初めて見る先輩の表情は、なんだか痛々しかった。月光を受けた両目が光って見える。
そしてその両目でキッ、と俺をにらみつけて、先輩が怒鳴った。


「お前には、わかんねーよ!」


急に荒くなったその声に、俺の体は思わず硬くなる。
怖い。
けどその声は、今にも泣き出しそうなようにも聞こえた。

「いつも楽しく野球してさ、野球が苦痛だなんて考えてみたこともねーだろ、お前」

「マウンド登りたくない、とかボールすら見たくない、なんて信じられねーだろ?」

「こんな、嫌々投げてる俺の気持ちなんか全然気づきもしねーで四ヶ月間ずーっと俺の球受けててさ」

「そんなお前見てると、すげームカつく!!」

先輩はそこまで言うと、いったん口を閉ざして、尻餅をついたままの俺の顔をにらみつけた。
イッチャン先輩の口から溢れ出た言葉の波は、俺を一瞬のうちに飲み込んで、そしてすぐさま流れ去る。けれど形のないはずのその波は、俺の中にそのまま刻み付けられて跡を残した。

ずっと、そんな風に思っていたんすか。

苦しいような悲しいような目で俺をにらんでいる先輩を見上げながら、俺はただただポカンとしていた。
先輩のその言葉にどう返したらいいかも分からなかった。
だから、そのとき唯一頭にぼんやりと浮かんでいた疑問を、ほとんど考えもせずに口に出した。


ずっと思っていたなら、なんで…


「なんで、今まで、言ってくれなかったんスか…?」



厳しかった視線がふっと緩んで、俺の顔の上からそれた。

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