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□ろくな女じゃ72
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彼女の声を聞く度に思い出すのは、十年前の山の中、何度も若旦那を呼ぶ自分の声。



『若旦那!若旦那!』



一時でも離れるんじゃなかった。生まれてまだ一年経たない小さな若旦那。親方譲りの威勢の良さは泣き声の大きさに表れて、俺はひたすら山の中、その泣き声だけ頼りに消えた若旦那の姿を探す。



『若旦那!若旦那!』



その日は村総出で忙しくて、俺は若旦那の子守を任されていたんだ。慌ただしい村の中で邪魔にならないように、ふらりと散歩のつもりで向かったのは近くの山の中。あんまりにも陽気な日だったから、思わず日当たりのいい場所に若旦那を下ろして「ちょっと水汲んで来ますね」なんて言って放れてしまった自分を殴りたい。



『若旦那!若旦那!』



そして若旦那が消えた。ほんの一寸しか経ってなかった。だけどそこには確かに若旦那はいなくて、真っ青になって必死で若旦那の名を呼ぶ。応えるように響いたのは若旦那の泣き声。若旦那、若旦那。




『若旦那!!』





一際大きく聞こえた泣き声に、茂みの中に突っ込むように飛び込む。途端に開けた視界。そこには最悪を想像した獣と若旦那という組み合わせはなかったけれど、未だ泣き続ける若旦那は一人じゃなかった。






『弟さん、ですか。』





それが彼女の第一声。木漏れ日に光る赤い色。血の色のようだと一瞬不気味に思ったけれど、それはただの鮮やかな赤毛。

齢五つの小さな少女。その腕に泣きながらも収まる若旦那は大きく感じるのに、彼女は慣れた手つきで腕を揺りかごにしていた。





『蜂、』

『え、え?』

『蜂の巣の下に置いては、いかん。』





若旦那の泣き声にかき消されそうになりながらも、蜂の巣、と聞いてようやく状況を理解する。若旦那を寝かせた木の上に、蜂の巣があったなんて全然、分からなかった。

だから、つまりこの子は、





『助けてくれて、ありがとう。』

『…いいえ。』






まだまだ泣き止まなそうな若旦那を俺の背中におぶわせる彼女は、一度もにこりとしなかったのが印象的だった。見たことのない子だから、他の集落の子かもしれない。こんなに小さいのに、一人でこんなとこまで来たのかな。すごい。

思って、聞いてみた。君はどこの村からきたの?って。するとその子はふるふると頭を振って、近くに屋根のある場所はありますかと聞いてくる。





彼女は、迷子だった。












「清八さん。」

「、っ!」



駆け抜ける山道、幻聴みたいに妙にはっきり、自分の名前を呼ぶ声に、そんな十年も前のことが鮮やかに頭を通り過ぎた。

慌てて手綱を引き絞って馬を止めて、振り返る。ああ、くのいち教室は、丁度野外学習だったのか。今日は会えないかと思ってたけど、会えて、よかった。





「……君、迷子?」

「はい。…と応えたら、また加藤村で一カ月過ごせるのでしょうねえ。」





山の奥、草場の中から出てきた背の高い女の人の姿は、桃色の忍装束を身に纏って、それは迷子である筈がないと確信するに当然の姿。


それを分かって、冗談をめかして、昔のように言った言葉に乗る彼女。装束と揃いの頭巾からは、あの日と全く変わらない赤い髪が覗く。





「お望みなら、連れて帰りますよ!」

「おやおや、大事な面子が一人足りんでしょう。」





おどけてそう言う彼女が向けた表情は、あの時一度も見せなかった笑顔。優しい笑み。


それは彼女が今の生活に充実しているのが一番の理由なんだろうけれど、積み重ねた歳月と、それに足る信頼もあるからだと、ちょっと自惚れてもいいだろうか。





あの時も今も、彼女について分からないことは沢山、あるのだけれど。






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