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□ろくな女じゃ102
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早朝。店から出てさほど行かない内に、見覚えのある女と目が合った。

漆黒の黒髪を背で揺らし、地味な色の着物を纏いながら、面は品と華やかさを匂わせる年頃の女。


一瞬でも足を止めたのは、間違いだった。



「お早うございますね。」

「…何だ、生きてたのか。」

「まあ、素直でないこと。再度お顔を出して下さったと伺っておりましたのに。」



こちらに気付いて足を止め、体をこちらを向けた女は、朝の中で夜の顔で笑う。…今日は─いや昨夜は、店に居たのか。



「昨晩はどちらのお店に?」

「お前には関係無いだろう。」

「如何にも。昨晩はわたくしも体が空いておりませんでしたわ。」

「女郎でも無い癖にまだ客を取っているのか。」

「それこそ貴方様には関係の無いことでは?」



いつ会っても生意気な女だ。くすくすと笑いながら揚げ足を取る様は、悪戯好きな少女のそのもの。

しかしまだ、どちらの足も動かない。



「女郎でもない女を金子で抱いたのは、どこのどなたでしたでしょうねえ?」

「…喧しい。次はいつ居る。」

「恐らく、もう二度と来ませんことよ。」


「……何だと?」

「此の度は、お客様に御指名を頂きまして参じた次第です。しかしわたくしも本業がありますので、もうこれきりに致しますわ。…いえ、そんなのは、体の良い言い訳ですわね。」

「……。」

「わたくしを乞うて下さる奇特な彼の御方は、もう二度とわたくしを御指名なさることはないでしょう。それが理由ですわ。」

「…ふん、愛想尽かされたか。お前は性格が悪い。」

「まあ、手厳しい。」



ふざけた表情に混ざる、ほんの微かに陰る目元、鍛えたこの耳でも僅かにしか感じられない絞った声。

健気に哀愁を隠すいじらしさ──それを巧みに醸し出すこいつに、騙されてはいけない。そんな柔な女であれば、俺はここで立ち止まってはいない。



「今此処で、お会いできてようございました。いつも憎まれ口を叩かれる貴方様は、また一段と愛着があるというもの。」



今生の別れを告げるが如き言葉を使おうとも、一歩も進んではいけない。

例えこいつが本当に消えたとしても、俺には何の支障もないのだから。

──何の支障もない状態で、いなければ。




「もしも、来世で再び相見えることができましたなら、またわたくしを抱いて下さいますか。」

「…戯言は夜に言え。」

「まあ、朝など一度たりとも来てはおりませんのに。」

「……?朝だろう。」

「いいえ、夜ですわ。」



元来妙な女だが、いつにも増しておかしな事を言う。

思わず空に目をやるが、朝焼けを終えて白んでいく色はどう見ても早朝そのもの。分かりきっている。では何かの喩えか。ならば、何の、




「貴方様は夜に忍ぶ者。違いますか?」

「、」

「そしてわたくしもまた、夜の中を飛んでいる。…朝の気配すら、見つけられずに。」




こいつ。





「私は、朝を迎えたことなぞ、一度たりともありませなんだ。」





知らん女の声を使う、こいつは一体誰なんだ。


中性的な、辛うじて女と判る声色。きっぱりと言葉尻を止める、意志の強そうな語尾。どれも俺の知っている女郎とは違う。しかし目の前には確かにその姿があり、惑いかけて止める。

騙されるな、動揺するな。俺はこいつを知っているのだ。たとえ、演じた一側面だとしても。


見ることは見られること。知ることは、知られること。そんなことは当然の前提。聡い女と解って尚、俺はこいつと関わった。そして、こいつもまた。

そうでなければ、俺にその声を使う必要はない。女郎でもないのだから、思わせぶりな駆け引きで客を引き留めておく必要もない。ならば、その意図は…──そう思わせることすら…この女の手管か。



「性格が悪い。」

「其の御言葉、先程も賜りましたわ。…聡い御方。」

「悟らせたのはお前だろう。」

「ええ。」



わざとらしくもなく戻った声に迷いはない。何も仄めかさない。

本当は、何も悟っちゃいなかった。この女が今此処で俺を惑わせたところで、何の得もないからだ。素性も仕事も一切話していないのは当然、もしもこいつが敵として現れたとしても、容赦はしない自信がある。

そう、所詮は遊戯。所詮は一晩肌を合わせた顔馴染み。お互いにとって、それ以上でも、それ以下でもない。そうだろう。──もう、戻らなくては。



「最期にもう一度だけ、お戯れを。」

「…何だ。」

「先程の問い掛け、色好い返事を願います。」

「……万が一にも来世で俺が憶えていたのなら、その時はお前の勝ちだ。嫁にでも貰ってやる。」

「まあ、嬉しい。」




夢物語から抜けきらない、睦言に虚言。

確かにこいつは夜だった。金色の朝日を受けながら、女は何も変わらない。体を元の向きに戻し、そっと足を踏み出すは、あの夜、金で買われた女。


──…だが、





「ではまた、来世で。」






死に往くには、惜しい。


そう思えども、俺の体は朝に向かうことを拒めない。

朝に待つ者の為に、己が生きていく為に、俺は夜に忍ぶのだから。






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