瞳の住人

□序説
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 臨終の時を今に迎えた相澤瑞樹に、瀑布の如き雨は無情な奔流のまま凡てを浚い、足許の土砂と瓦礫と、彼がこの数秒の間に流した血液と呼ばれる液体を何処ぞへと流してゆく。

 がちがちがちがちがちがちがちかち。

 歯が上手い事噛み合わさらない。さっきからずっとだ。
 まるで臼歯が臼歯を擦りおろしているみたいで、犬歯が犬歯を咬み砕いているみたいで、健全な歯と歯茎を健全な歯と歯茎でもって破壊するかのようだ。
 口の中が錆臭いのは歯茎あたりから出血をしている?何を咬むでもなく、ただ上顎と下顎に力を込めすぎたあまりに正常な顎関節まで砕け異常となり……ああ、だとするなら出血しているのは歯茎からだなんて軽傷ですんでいる訳がない。
 だとするなら、錆臭いのは口と位置付けられる凡ての範囲から出血をしているからだと推測が出来る。
 ああ。死を間際に控えながら、俺とはなんて冷静なのだろうか。
 今際の際、臨終の刻を控えた俺とは、まさか自分の顎関節に関しての考察をしている。そんな一部分、もうどうでもよいのに。

 ぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎり。

 咀嚼される音。
 鼓膜の内外で響くその音は荘厳さを欠いた弔いの鐘声だ。

 ぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎり。

 鼓膜の内外で響くその音は、どの部分の健全な歯でもって、どの部分の嘗ては健全であった部分を咀嚼する?

 ぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎり。

 今更に、気付いた。
 欠いたのは荘厳さなんかじゃない。
 欠いたのは、嘗ては健全であった俺の左腕だ。
 痛みすらなく、熱さもなく、何もないから、左腕が無い事に気付けなかった。
 雨を多分に含んだ地面に沈んだ顔を浮かせる。
 ぽたぽたと、黒い泥が血のように滴る。
 左腕が無いだけで、顔を浮かせる何て事もない動作が酷く困難になる事を初めて知る。
 拳一つ分だけ浮き上がった顔面は、唐突に失った左腕一本分のバランスを欠き、再び泥水と化した地面にしたくもない口づけをした。
 口の中にざらりとした泥水が無許可な侵入をする。堪らずに吐き出すと、口の中に充満していた錆の異臭が、やはり出血を原因としたものだと判った。
 辺り一面が暗すぎて色なんて鮮明に判断出来たものじゃないが、それでも目の前で飛び散った飛沫が醜悪な赤色をしていた事を視認するくらいは簡単だった。
 血の量が多い。出血は咥内でなく、それよりも身体の内側からだろう。でなければ、吐き出した血の量の説明ができないじゃないか。
 二度目。二度目を試みた。
 二度目は、左腕が失った分のバランスを右腕が補い、どうにか、今し方は無理であった拳一つくらいまでの顔の浮上を達成した。

 ぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎり。

 それは遠くにも感じるし、近くにも感じる。
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