瞳の住人

□序説
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 どれだけ手を伸ばしても触れられない彼方にも感じるし、肌と肌が触れ合っている錯覚を抱くくらいの間近にだって、感じる。
 それは上下左右に蠢く獣の顎があまりに巨大すぎたからか?
 それは俺の常識が常識の範囲で捉えられる獣のサイズを超越しているからか?
 それとも、俺の正常な意識まで掠れて異常になり、遠近感を正しく感じられなくなる程、俺としての意識は白濁を始めているのだろうか。
 ああ、そういえば左腕を咬み千切られたのに痛みすら感じないなんてのは、その影響じゃないだろうか。
 昨日出逢った、人体の感覚から凡てを司っているみたいな仰々しい名前の例の少女が俺に向けて何かを叫んでいるが、古い無声映画みたいに音声だけが抜け落ち、酷く歪んだ叫喚の表情しか俺には見えない。
 聞こえない。
 そうだ、いつからか聞こえなくなっていたんだ。
 ぎりきりと咀嚼する音も、少女の悲鳴も。
 鏡面に百以上の鋭利な針を突き立てて奏でる、不協和音のようなあの空気の振動さえ。
 あの空気の振動は何が壊れる音なのかが判らなかったのだが、今なら何となく判る。
 少女は防壁だとか、そんな言葉を言い放っていたが、そうじゃなかった。

 そうだ。
 壊れていくのはそんなものじゃない。
 壊れていくのは、俺、自身だったんだ。

 白濁する意識の中で獣の顎の動きは終わり、顎と同じく巨大すぎる喉が上下した。
 聞こえないが、きっと、ごくりと鳴っただろう。
 残念だ。
鼓膜さえ辛うじてでも正常であれば、俺はその異音を鼓膜に焼き付けていただろうに。
 俺の左腕は肉も骨も綺麗なペースト状にされ、無事に飲み込まれたらしい。

 そして、
 …………………。
 …………………。
 …………………。
 …………………。
 …………………。
 …………………。
 …………………。
 …………………。
 …………………暗転。

 ◇◆◇

 もしもを考える
 もしもを願う
 もしもの世界を
 もしもの過去を

 自分の行為
 あの日あの時
 こうしていればなんて
 そんな
 もしもを考える
 もしもを願う
 もしもの世界を
 もしもの過去を

 願わくば
 もしもの世界でも
 生きていられればと
 儚くも滑稽な
 もしもの世界を

 もしも
 もしも

 仮定は抑止を有さない
 仮定は際限を有さない
 仮定は仮定を招き
 仮定を創生する

 もしもを考える
 もしもを願う
 もしもの世界を
 もしもの過去を

 それとは
 『if』の螺旋

 ◇◆◇
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