【夢語り】

□黒服のかまいたち 第六章〜彼方に響きし笛の音は〜
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 伏せていた瞼を上げる。微かに震える彼の背中に自由を取り戻した腕を遣りかけ、それでも仁は拳を握り締めて思い留まった。
 飾られる事のない言葉は、確かに心地よくて。向けられる心は、誰よりも自分の事を想ってくれている。だからきっと、その方が楽だろうけれど。

(だけど…)

 それでも尚、譲れないものが、ある。何を犠牲にしても、守りたいものが、ある。
 例え、それが己の命だったとしても。
 生きて欲しいと、言った。あの日散って逝った仲間達も。あの場所に受け入れてくれた人も。そして、本当は誰よりも心優しい彼も。
 生きろ、と。ただ純粋に、それだけを、願った。
 間近で祇紅の息遣いを感じながら、仁は穏やかに微笑んだ。

「…ねぇ、祇紅」

 自分でも驚く程、心の中は穏やかで。

「生きて欲しいと、その心だけで充分だったんだよ」

 生まれてくる前から背負う『宿命』を受け入れることが出来たのは、向けられるその心があったから。
 自分がいなくなっても、彼等はこの世界で生きていける。

「命を懸ける覚悟を決めるのは、大切な人がいるからなんだ。憶えていてくれる人がいれば、それでも構わないと」

 生きろと、誰もが言った。それは、単純のようで、本当はとてもとても難しくて。
 いつも、天秤にかけてきた。己の命と、世界を。
 今までは、その両の皿は均衡が保たれていた。どちらに傾くこともなく。だけどそれが、どんなに不安定なものか、仁は知っていたから。
 迷うことが、ないように。二つのうちどちらかを選べと言われたら、躊躇わずにそちらを選べるように。ずっとずっと、前に、決めてあった。
 定めたこの心は、絶対に曲げられることはない。

「祇紅。君は、自己犠牲だって言ったけど…。私は、そうは思ってないよ」

 仁のその言葉に弾かれたように体を起こし、祇紅は感情のままに叫んだ。

「犠牲だよ!生贄じゃないかッ!遥か昔から、ずっと…ッ」

 込み上げてきた想いが祇紅から言葉を奪う。ぐっと唇を噛み締め、それでも彼は仁から視線を外さなかった。

「…罪の贖いは誰のもの?その犠牲は誰の為?確かに、その他大勢の人間は生きていけるかも知れない。だけど、犠牲にされた者の想いは何処へ行くの?その命は、奪われていいものなの?」

 泣きそうな顔で、祇紅は仁を見つめ続ける。その、何処までも凪いだ碧の双眸が苛立たしかった。
 思い知らされるから。もう、自分の言葉は届かないと。定めたその心を、曲げることは叶わない。
 悔しかった。どうしようもなく、腹が立った。まるで諦観したようなその態度に。そして何よりも、そんな彼女の心さえ変えられない、不甲斐無い自分自身に。
 両拳を握り締める。爪が皮膚を破る程、強く。流れ出した血が、まるでその瞳から零れ落ちることのない涙の代わりであるかのように。

「…残された者は…どうすればいいッ!」

 天を突く叫びに。嘆きにも似た懇願に。
 それでも。仁の覚悟が、揺らぐことはなくて。その碧の双眸は、深海のように澄んだまま。


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