海の誘い
□Andante/上
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黄昏の駅のホームに速都(はやと)はいた。誰かを待っているかのように、何度も左腕にはめた腕時計に視線を落としている。
「遅い」
そして、呟く。その声音には、微かな苛立ちが含まれていた。
「何やってるんだ、あいつは」
その銀髪をうっとうしそうにかき上げて、速都はもう一度時計に目を落とした。
「速都!」
自分の名を呼ぶ声に視線を前方に移せば、見慣れた顔が走ってくる。そして、彼は速都の所まで来ると、膝に手を当てて乱れた呼吸を整え始めた。その肩を一つに結わえられた黒の長髪が流れた。
そんな彼を、速都は冷たく見下ろした。
「遅い」
普段の声音よりも半音落ちた速都の声。
「遅いって…ちゃんと時間通りに来た…じゃん」
未だ乱れた呼吸の中で、それでも彼は反論する。
速都は、自分の腕時計に目を落としてから、駅に取り付けられている時計を見た。
「自己満足しているところ悪いんだが、今は四時二十分だ」
「嘘ぉ!俺の時計、今四時だよぉ?」
「知るか、お前の時計なんか。現に、今は四時二十分だ。あそこにある時計が見えるだろ?」
速都の指差す先に視線を向ければ、時計は確かに四時二十分を指していた。
「時間厳守って言ったのはお前だったよな、直輝(なおき)?」
「いや―、ゴメン速都。俺の時計、二十分遅れていたの忘れてたわ」
悪かったと、直輝は笑う。
しかし、彼の失態で二十分も待たされる羽目になった速都の怒りは、そんな事では収まらなかった。すっとその切れ長の瞳を細めた彼は、無言で直輝の頭に拳骨をお見舞いする。
鈍い音がして、直輝の頭に激痛が走った。
「ふざけるな。お気楽なのはその頭の中だけにしろ」
そう冷たく吐き捨てて、速都は歩き出す。