‡short story‡

□不条理なこと
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初めて出会った時から、その存在が脳裏から失せたことなど一瞬たりとも無かった。
どこか人形めいた繊細な雰囲気。儚さを漂わせたそれは、でも、たしかに人間だった。
桔梗の上司である男は、彼のことを蹂躙して当然の玩具として見なしていたようだったけれど。
記憶にある彼はいつも何かに怯えるよう、そっとこちらを窺っているばかり。
泣き濡れたような琥珀色は時折瞬くくらいで、その奥を映し出してはくれない。
桔梗さん。彼が呼ぶ声はいつも遠慮がちだった。
そして、目を伏せて、ごめんなさい。と呟くのだ。
口癖のように、あるいは、それ以外の言葉を知らないかのように。

「ごめんなさい」

あぁ、ほら。今日もまた。
鏡越しに後部席を見遣れば、彼はやはり目を伏せるようにしていた。

「あなたが何を詫びる必要があるのです?」

「毎日オレの送り迎え、なんて大変でしょう?」

自嘲するように彼はそっと口元を少し吊り上げる。
そんな些細な表情すらも美しいと思ってしまった。
どうして彼があの男のような人物の愛人などになっているのか。桔梗には分からない。
彼はそんな世俗的なものと縁遠いようなのに。
桔梗は自分の上司を思い浮かべた。
権力と強欲の権化のようなあの男が毎晩のように彼を弄んでいるのかと思うとぞっとした。
あぁ、けれど。彼はやはり彼なのだ。
今夜もまた、そうだった筈なのに彼は微塵も情事の気配を漂わせていなかった。
汚れもせず、染まりもしない。
桔梗はそのことにそっと安堵する。

「気にすることはありません」

答える声に、感情が滲まないよう抑えるのが大変だった。
あなたと二人きりでいられるこの時間が愛おしくて堪らないだなんてとても言えない。





幾つもの通りを、街を、抜けた。並走する自動車も少なくなっていく。
白み始めた夜の向こうに、彼の住むマンションが見えてきた。
社長に買い与えられたものなのだろう。
最先端の技術と、高級さを売りにするその建物。彼ならば選ばないに違いないと桔梗は思う。

「もうじき到着します」

「はい」

もう何十回目となるやりとり。
社長が彼を愛人として囲うようになってから、ほぼ毎日。
彼を迎えに行くことと送ることが、桔梗に与えられた役目になっていた。
会社の向上に繋がるわけでもない、お抱えの運転手にでもさせれば良いような単純な仕事だ。
あの男がそれをわざわざ桔梗にやらせるのは多分嫌がらせのためだ。
あの男が桔梗を敵視していることくらい知っている。
知力、能力、全てにおいてあの男が桔梗よりも優っている部分などないからだ。
俺を見下しているんだろう。あの男は怯えている。
澄ました面して、内心嘲り嗤っているんだろう?
言葉にされたことすらないが桔梗に対しあの男は恐怖している。

――だから、でしょうか。

桔梗は背後にそっと視線を走らせる。
ため息をつきたくなった。
あぁ。
あの男は自らの所有物を見せつけ、自慢したいのだ。
金と力をもってして手に入れた彼を。
やはりどうしようもなくあの男は痴れ者だと思う。
桔梗が彼と共にいられることをどれだけ幸福に思っているのか知らないのだ。
たしかに、これ以上距離を狭めること……触れることさえも叶わないことは苦しいけれど。

「桔梗さん」

「…………、なんでしょう?」

思考に夢中になってしまっていたらしい。
返答が遅れた。

「これからお仕事されに行くんです、よね?」

「えぇ、まぁ」

彼の問いの意図が理解できなくて、困惑する。
綱吉は何か言おうとしてか唇を震わせる。
けれど、開こうとしては閉じ、を繰り返すばかり。沈黙は続いた。
桔梗の心情とは関係なく、身体の方は習慣にならい運転を続ける。
ハンドルをきる。ブレーキを踏む。徐行する。
そうして、いつものようにマンションの車寄せへと乗りつけた。
車外に出て、彼のためにドアを開ける。

「どうぞ、綱吉様」

「…………」

「綱吉様?」

動こうとしない彼に桔梗はますます戸惑う。

「調子がお悪いのですか?」

綱吉は俯けていた顔を仰向ける。
桔梗を見つめるその瞳は思わず背けたくなるほどに清廉だった。
こく、と彼は頷いた。

「……部屋まで、送ってくれませんか」

そんな分かりやす過ぎる誘い、彼のもので無かったら断っただろう。
そう。少しばかり期待していたことは否定できない。
拒むことなど考えもしなかった。





綱吉の部屋に上がるのは初めてだった。
玄関にも、廊下にも何の装飾品もない。
良く言えば落ち着いた、悪く言えば殺風景な部屋。
生活感はまるでない。
彼はここで暮らしているのではなく、ただ、ここにいるだけなのだ。桔梗は思った。

「こちらに」

綱吉は桔梗が着いてきているのを、ちら、と確認して歩きだした。
会話は無かった。
ただ、彼が常にこちらを意識しているのは分かった。どことなく緊張したその様子を可愛らしく思った。
廊下を幾度か折れたその奥。綱吉はそこにあるドアに触れた。
カチャ、と小さな音を立ててそれは開いていった。

「……ここは」

「オレの寝室です」

綱吉が壁に手を触れると、明かりがともった。ぼんやりとした薄明るい光が室内を映し出した。
寝台は桔梗にとってあまりにも都合が良すぎて、気まずくもあった。
彼は中に入っていく。
どうしたものかと困惑する桔梗を見通したように彼は振り返った。

「桔梗さん?」

「綱吉様」

足を止める必要は無い。
調子が悪いと嘘をついたのは彼の方だ。それに乗ればいい。
気遣って付き添ってやるのは何もおかしいことでは無い。
桔梗は一歩踏み入れた。
安堵したように綱吉は微笑んだ。
拒まれはしないかと怯えていたのだとしたら、それは見当違いだ。
彼は桔梗の理性がどれほどまで堪えられるものなのか案ずるべきだ。
二人きりの空間、好都合な舞台。
秘めた恋情を抑えるのにも限界がある。
心、などというものよりもはるかに満たしやすい欲望に、想いが変わらないとも言い切れない。
彼はきっと分かっていない。
無防備にベッドに座り込んだ綱吉を眺めながら桔梗は思う。
距離を狭めても彼はまるで動揺しない。
自分はそんなにも信用されているのだろうか。桔梗は少しばかり苦しくなる。
綱吉はす、と口を開いた。

「ごめんなさい」

紡ぐのは、口癖と化したようなその言葉。
嘘なんです。消え入りそうな声で彼は続けた。

「嘘、ですか?」

「あなたを引き止めたくて」

だから、調子が悪いなんて嘘をついた?
そんなこと、とうに知っている。
知っていてここまで着いてきたのだと告げたら、彼はどんな顔をするだろう。

「……お仕事までの時間、一緒にいてくれませんか」

窺うように問うてくる彼に桔梗は息を吐いた。
車内での沈黙はこの“お願い”を切り出すためだったのか。
無意味な問いだ。
肯定でしか答えられない問いなどまるで意味が無い。

「私をこんな場所に連れてきて……、自らを案じはしなかったのですか」

「あんじる?」

訳が分からない、とでも言いたげな綱吉の表情。
それは人形には持ち得ない色だ。
桔梗は一層彼を愛しく思っておもわず笑んだ。

「私とあなたは二人きりです」

「そう、ですけど……」

それがどうかしたのだろうか。不思議そうに彼は首を傾げた。
桔梗は答えず、彼との距離をさらに詰めた。
こちらを見上げみつめてくる綱吉のもとに屈み込む。
その感触は思い描いていた以上にずっと柔らかで温かで。
唇を重ねるだけの行為なのに、ひどく甘美なものに感じられた。
綱吉は拒絶しない。
そのまま口づけを続けそうになって、ふと我に返る。
桔梗は唇を離した。

「抵抗しなさい」

これでは合意の上での行為のようだ。
あってはいけない。自分たちの間であってはならないことだ。

「どうして」

「私はあなたを好きだった」

それはもう、ずっと前から。会った時から。
一時的な錯覚だと思い込みたかったのに、収まらない。
どんどん酷くなっていくばかりだ。

「お願いです。拒絶して下さい」

好きじゃない。触れるな。いやだ。
なんでもいい。
さもなくば自分は取り返しのつかない行為に及んでしまうだろう。
それは、彼を傷付ける。そればかりかこの生活すらも奪うことになるかもしれない。

「…………」

答える言葉は無い。
桔梗は彼が次に紡ぐ言葉をいかなるものでも受け入れようと覚悟した。

「桔梗さんは……気がついてるのかと思っていました」

綱吉は呟く。
全く思いもしない返答に桔梗はただ彼を見つめるしかなかった。
こちらを見上げる瞳はやはり泣いたように潤んでいた。
明かりを映し出し、揺らめく。

「何のことでしょう?」

魅入られながらもなんとか言葉を返す。

「オレが……桔梗さんに抱いてもらえないかって期待してること」

「!?」

「ごめんなさい」

彼はまた謝る。
何ともないでもいうように微笑む。それでも、それはどこか痛々しさが滲んでいた。

「オレだって、分かってます」

この状態がどんな状況を誘発するかということくらい分かっていた。
分かっていて誘ったのだと綱吉は言う。

「だから、桔梗さんがキスしてくれた時本当に嬉しかったです」

「綱吉」

思わず、口に出さず彼を想う時のように呼んでしまう。
あぁ、いけない。
そんな言葉を並べられて自分の抑えが堪えられるはずなどないのだ。

「ごめんなさい、桔梗さん」

――あなたが好きで堪らないんです。

とどめの一言だった。
そんな“ごめんなさい”ならば幾らでも聞きたい。

「私も、……好きです」

綱吉。あなたを愛してます。
近付くことを恐れる理由など、もう無かった。
桔梗はそっと彼を抱きしめた。






会社に行く前に綱吉を送り、家に戻る前に綱吉を迎えに行くこと。
それが桔梗の日課だった。
いつもならば、綱吉を家へ送るべく会社の外で待っているのだが今日は違った。
呼び出し。
電話口の声にはさして憤りは滲んでいなかったけれど、社長に自分と綱吉とのことが露見したのだろうと容易に予想がついた。

「失礼します」

社長室のドアをノックして、何も返ってこなかったらそれは入ることを許可したということだ。
桔梗は慇懃に告げて部屋の中へと足を進める。
その瞬間だった。

「っ!?」

思いきり殴りつけられていた。背後から一切の遠慮もなく、頭部へと拳を振るわれた。
それはあまりにも唐突で、避けることも防ぐこともできなかった。
当たりどころが悪ければ死んでいただろうと思われるほどの衝撃。ずきずきと痛むのは多分あの男がいつも指にはめているリングのせいだ。
膝から崩れ落ちた桔梗の、その頭上に影が落ちる。

「どうしましたか?あなたらしくもない横暴なことをするじゃありませんか」

心にもない台詞を吐く。
いかにもこの男らしい、と桔梗は思った。短絡的で思慮が浅い。
口許が歪みそうになる。

「相変わらずよく喋る口だな」

男は舌打ちを一つ寄越した。
視界の端で男が動くのが見える。持ちあげられた足。それは桔梗の頭部へと振り下ろされ、踏みにじってきた。
堪え難い屈辱だった。
桔梗は唇を噛む。男のことなど知覚したくなくて目を瞑った。

「そのよく動く口で説明してもらおうか」

男は低い声を漏らす。
何を、などと問わずともしれる。

「あれが俺のだと分かってて手を出したんだろう?」

良い度胸だな。吐き捨てるように男は言って、桔梗にかける力を強くする。
勿論、桔梗は言葉など返さない。
喋るだけ無駄であるし、男が自分の言葉を聞く気がないのは分かっていた。

「お前は俺に気が付かれても構わないと思っていたんだろう?」

「…………」

「裏切ったとはいえ自分の愛人を傷付けることはないと踏んでな」

――!?

反応などしないと決めていたのに、動揺してしまった。
綱吉は無事なのか、どうか。男の言葉は綱吉の不安を煽る。
男は下卑た笑いを寄越した。

「そして、俺があれを捨てればいいとでも思っていた」

否定はしない。
その通りだった。
そうすれば、綱吉はこの男から離れられる。
自分はそんな彼と新たな生活を始めていけば良い、と、そう思っていた。

「生憎だが……、俺はそんな勿体ないことはしない」

男はぐり、と靴底を桔梗に押し付けながら嘲笑する。
割れるような痛みとはこのことを言うのだろうか。
頭蓋骨が軋み、目を閉じていても暗闇がチカチカと瞬いていた。

「勿論あれには苦しい思いはしてもらうが、」

男は尚も言葉を続ける。その一言一言が桔梗を抉ることを分かって敢えて口にしているのだ。

「そのうち、自ら乞うようになるのだろうな」

押さえ付けられた桔梗に男の表情を窺うことはできなかったが、浅ましい愉悦に歪んでいるのは想像がついた。
ふざけるな。桔梗は憤りに眩暈を覚えた。


どうして……、ただ愛してしまった人といたいだけなのに叶わないのだろう?



END

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