‡short story‡
□誘惑
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たしかに、彼は極めて良好な状態にあったのだ。
脈も血圧も全てが正常値に近付きつつあった。
もうこれ外せるかもね、なんて言って彼の腕に繋がれたチューブを指差して。
彼もそうかもしれませんね、と微笑を返してくれた。
それが今朝のこと。
少し前から回復の兆しは見え始めていたものの、はっきりと医師の方からそう告げられたのは初めてだった。
「嬉しそうですね、綱吉」
「だって、また、おまえと一日中一緒にいられるようになるんだよ?」
骸は嬉しくないんだ。ふぅん、へぇ。
綱吉が拗ねたようにそっぽを向けば骸は肩を震わせた。
「そんな筈あるわけないでしょう」
君には随分と寂しい思いをさせてしまいましたね。骸は言って綱吉に手を伸ばした。
もっと近くに来いということらしい、と綱吉は従う。
伸ばされた彼の手がようやく綱吉の指をとらえた。
絡みつくように握られて、
――あぁ、やっと彼とこんな風に触れ合えるようになったのだ。
と幸せな気分になる。
「僕がここをでたら」
「うん」
「まず君と一つになりたいです」
「うん……?!」
先ほどまでの幸福そうな様子はどこやら一転して硬直した綱吉に骸はクフと笑った。
「冗談ですよ」
君と一緒にいられることの他に何を望みましょうか。
そう言ってみせた骸があまりにも優しく微笑んだから、綱吉はどうしようもなく照れくさくなって指に絡む彼のそれをぎゅっと握った。
綱吉が昼食を取って骸の病室に戻ろうとした時、異変は訪れていた。
慌ただしく看護士や医師が出入りしているのを見て先ほどまでの高揚感はどこやら、すぅっと血の気が引いていくような気がした。
――骸に何かっ!?
ちらりと見えた病室にはすでに骸の姿はない。
綱吉は近くにいた医師を引き止めて彼の行方について問おうとした。
と。
「容態がね、急変したんだって」
後ろからそんな声がした。
はっとして振り返れば、他の医師たちと同じ、白衣に身を包んだ男が立っていた。
身に纏うそればかりか、髪、肌まで白い。
「君、ここの患者のところに毎日見舞いに来てた子でしょ?」
そう言って骸の病室を指差した。
綱吉が茫然としながら頷けばやっぱり、と笑った。
「悪いけどさ、あの人もう助からないと思うよ」
笑顔のまま男は言ってのけた。
「今ね、彼らは頑張ってるみたいだけど……」
あんなんじゃ救えないな。
男はクスクスと笑う。
いつのまにか廊下には綱吉と男だけになっていた。
しんとした廊下は何か不吉な予感を誘うようで綱吉は身を震わせた。
いやだ。
言葉が勝手に唇から漏れていた。
音にしたことで、綱吉の意思はよりはっきりする。
ついさっきまで、一緒に帰れるかもしれないなんて、そんな話をしていたのに、いやだ。
なんで今度は彼が死んでしまうかもしれないなんて話になってるのだろう。
いや。と呟いてどうなかなるものでもないのに言葉は止まらない。
同時に涙腺まで弛んできてしまったみたいで、頬を生温い液体が伝った。
そんな綱吉を男はじっと見下ろす。
「まぁ、」
助かる手だてがないわけじゃないよ。
す、と屈みこんで綱吉の耳元で囁くようにして言う。
その表情は綱吉には見えない。
「え……?」
「僕が助けてあげようか」
条件はいくつかあるけど、六道骸の命は保証する。
彼の命を取るか自分の平穏を取るかは君の自由だけど、
――どうする?
男の言葉はまるで悪魔のそれのようだと綱吉は思った。
END