‡short story‡

□篭女
1ページ/1ページ

噎せ返るような香の薫り。
それは思考を奪うかのよう部屋中に溢れ返っていた。
窓はなく、日が射すこともない。
唯一、外界と繋がる襖に隙間はなく、しっかりと閉じられてしまっている。

――苦しい。

綱吉は喘ぐ。
彼を蝕む香は、身体の自由を奪い、痺れをもたらす。
けれど、縄に拘束された両腕ともう何時間にも渡って正座させられ続けている脚とがじん、と痛み、意識を此方に縛り付けて離してくれないのだ。
これならば気の狂いそうなほどの責め苦に意識を失ってしまえた方が幸せかもしれない。
あるいは、一思いに殺してくれた方がどんなに良いだろう。
中途半端な苦痛は何よりも綱吉を苛んだ。

――帰りたい。

朦朧とする意識の中、それだけを思う。
家族の元に、友人の元に。
綱吉は決して裕福ではなかった。
けれど、幸せだった。
こんな煌びやかな着物を纏わされ、飾り立てられている今などよりもずっと。
ここは空虚だ。
見せかけの絢爛、造られた微笑、演じられた媚態。
買うもの、買われるもの。
売るもの、売られるもの。
綱吉はあの男に引き取られた瞬間からヒトではなくモノになった。



“綱吉”。と、そうあの男に呼ばれる度に綱吉の身体には震えが走る。
彼は主人であり、綱吉は商品だった。
一日中、外に出ることもなく奥深くにある座敷に閉じ込められ続ける。
この部屋を人が訪れるのは綱吉の身の回りを世話する時ぐらいだった。
あるいは、彼が訪れる時だけ。
骸、というその男はこの界隈でも有名な女郎屋の主人だ。
綱吉は少年であったけれど、彼はそれでも構わないと言った。

「昨今は衆道を好む方も多いですから」

クフフ、と独特な笑いを洩らしながらそう続けた。
綱吉を引きとる際には、彼は莫大な対価をその家族へと支払っていた筈なのに、綱吉が客を全く取らずとも怒らなかった。
骸にとって損害になってしまうというのにも関わらず。
骸は飽きもせず無駄に豪奢な着物を綱吉に纏わせ、他の遊女達のように、否、彼女達よりもずっと高価な品々で飾りたてた。
綱吉にとっては窮屈でしかなかったけれど。
自分が何のためにここにいるのかが分からない。
家族のために身を売った。
何だってできると思っていた。
が、実際はただ自分を買う者を待ちながら、漫然と時を過ごすだけの日々だった。



ある夜のこと。
骸はいつものように月が傾きだした頃、綱吉の部屋を訪れていた。
女と客との間に問題が起きた場合には配下の者が収めるよう、任せてあった。
蝋燭の灯りだけが部屋をぼんやりと照らす中、綱吉は俯きながらぽつ、と呟く。

「オレは……何のためにここにいるんですか」

耐えきれなかった。
この男以外の殆ど誰とも接さずに、薄暗い部屋で日々を暮らす生活が。
このままずっとそうなのか。
何の役にも立たない綱吉を未だ大切に扱い続ける男の真意も分からなかった。
綱吉は唇を噛む。
そんな綱吉にちら、と目をやりながら男は嫣然として微笑んだ。
そして、

「僕の商品として、ですよ」

と、当たり前のようにそう告げた。
商品。
一度たりとも買われたことのない自分が?
綱吉は思う。
骸の意図など知る由もなかった。
誰にも触れさせないよう、敢えて手の届かないような金額を定めているなどと。

「でも」

綱吉がそう言い募ろうとすれば骸は露骨に表情を歪めた。
先ほどまでの微笑は嘘のように消えていた。

「……そんなに抱かれたかったんですか?」

違う、と綱吉が言うよりも早く、彼に腕を掴まれる。

「骸、さま……?」

彼が今まで見せたことのないような冷たい表情にごく、と綱吉は息をのむ。
ぐい、と床に身体を押し付けられて綱吉は痛みと見下ろす彼の視線の鋭さとに、恐怖した。
重たい着物は綱吉の動きの枷となり、抗うことを難しくする。
骸は綱吉の瞳を覗きこむかのようにその距離を狭めた。
濡れたように潤む双眸は視線を釘付けにするには十分すぎる程に美しかった。
骸は綱吉の衿に手をかけた。

「いやっ」

はねのけようと綱吉が手を伸ばそうにも、それごと押さえつけられてしまう。
自分の無力さと彼の圧倒的な力とをはっきりと突きつけられた。
綱吉は怖くて堪らないのに目の前の双色の瞳から目が離せなかった。
ほら、と彼は綱吉の耳元で囁いた。

「この程度で怯えているようでは客など取れませんよ」

綱吉の自由を奪っていたその手を離すと、骸は身体を起こした。
綱吉はようやくまともに息を吸うことができるようになった。
そんな綱吉を嘲笑うように、彼は続けた。

「もっとも……中にはその怯える様を愉しむ者もいるようですが、ね」

「!」

「そのような輩に売られたくないのならば、大人しくしているといい」

何一つ綱吉に自由はないのだ、と言われているようだった。
綱吉の中で、何かが壊れた。



綱吉は逃げ出した。
お金になるようなものも持たず、どこに行けば良いのかも分からず。
ただ必死に骸から離れようとした。
何の計画性もなく突発的に行われた彼の脱走は当然のごとく呆気ない幕切れを迎えた。
主、骸によって。



綱吉の前に現れた彼はひどく怒っていた。
ただ、その奥には不安が揺らいでいるのが見えて綱吉は戸惑った。
どうして、と骸は押し殺したような声で呟いた。
何故、離れようとするのか。とでも問うように。
綱吉の方こそ、彼がどうしてそんなにも辛そうなのか聞きたかった。



無理やりに連れ戻された綱吉の部屋は、今までとは違った。
地下室だ。
長い長い階段を降りた先にある、もっとも地上から遠い部屋。
逃げ出した罰を受けさせられるのだろうということは綱吉にも分かった。



部屋中を満たすきつい香に最初こそ息苦しさを感じていたものの、段々それすらも分からなくなってきていた。
手足の痺れさえも、感覚がなくなってしまったのか感じない。
いったい何日が過ぎたのだろう?
この部屋の澱んだ空気に、自身さえもゆっくりと飲み込まれていくような気がした。
感覚も侵蝕されつつあるのか、目の前でじりじり、と開いていく襖の奥に誰がいるかさえも分からなかった。

「綱吉」

呼ばれて、ぞくとする。

――この感覚……なんだ、っけ?

その誰かは綱吉の傍へと腰を下ろした。

「もう逃げ出さないと言って下さい」

男は言う。

――僕の傍から離れない、と。

彼は愛おしいものさえ商品としてしか傍に留め置くことができないのだった。他の術など知らなかった。
少年はぼぅ、と男を見つめる。
そして、その懇願に……。





[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ