‡short story‡

□糸遊
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それは笑む。
澄んだ琥珀のごとき瞳に甘やかな色を滲ませ、横目に少し、視線をくれてやろうとばかりに骸の方を見遣って笑む。
その唇に薄く浮かんだ微笑は妖しく、そして、どこか挑発的だ。
けれど、骸は苛立つことなく一層“それ”に惹きつけられてしまう。
それは人の形をしている。辺りの光に溶けてしまいそうな薄い白い布を身にしどけなく纏っていた。
まだあどけなさの残る容貌だったが、年はよく分からない。性別も分からなかった。
しかし、骸にとってはどちらでも良かった。いずれとも異なっていてさえ良かった。骸は既に“それ”に惹かれていたのだった。いったい何者なのだと考えることなどできないほど、その存在に魅入られていた。
何するでもなく真白の中に佇むそれに対し、骸はたまらず手を伸ばす。
渇きを癒そうと喘ぐ心地だった。
そうして、掴もうとして、瞬間目覚めて気がつくのだ。
今のは夢だった。と。



妙に生々しい夢だった。
今回が初めてではない。既に両の指にあまるほど幾度もそれのでてくる夢を見ている。
同じ夢を繰り返し見るわけではなく、舞台も、それの様子もその度に違った。まるで現実のようだった。
実際、骸は夢の中でそれに触れたことがあった。
華奢な見た目に違わず、その腕は骸の手が掴んでいるとすぐに砕けてしまいそうだった。その滑らかでいて手の平に吸い付くような柔らかな感触など、およそ夢とは思い難かった。
しかし、それもまたすぐに消えてしまったのだった。
それの態度は会う度に異なった。
今日のように意味ありげな視線を寄越すこともあれば、逃げるよう骸に背を向け駆け出すこともあった。あるいは、骸を誘うように手招きをすることもあった。
いずれにしても、骸を惹きつけることに変わりは無かったが。
唯の夢に過ぎないのだ、と骸は一応理解していた。
しかし、夢とは自らの中にある情報を整理するものである筈。だが、骸はそれの存在について全く覚えが無かった。
あんなにも蠱惑的な存在、出会ったことがあるのなら忘れるはずがないのに。
現に骸は“それ”を夢で見てから片時も思考の外へやったことが無かった。



――まもなく電車が参ります。



ぼんやりとした思考の遠くで、アナウンスが聞こえるような気がした。
あぁ、そうだ。ここは現実だ。
人の話し声、足音、それらの入り混じった駅の雑踏。小さく重なるその音は骸の意識を引くにはあまりにも不鮮明だった。
目を遣ってはいても、目の前の景色の何も、彼の意識には入って来なかった。
何も無い中にいるのと変わらない。真白い夢の中にいるのと同じだ。
曖昧。最近、自身の内と外との境界が失せてきているような気がする。
骸は僅かに眉を顰めた。



――ホーム中ほどでお待ち下さい。



あ。骸は小さく声を漏らしそうになった。
視界で揺れる白。見紛うはずもない。
今まではただの駅の景色の一部でしか無かったそこに、ふわり。溶けるように現れた。
突如として目前に現れたのはたしかに“それ”だった。
それの纏う薄布は緩やかな歩みに合わせるよう風に翻る。踊る。風は柔らかな亜麻色の髪をも揺らす。
骸は、今自分が現実にいるのかどうかが分からなくなった。
光に呑まれたようなぼんやりとした白の中で、それだけが骸の目に確かなものとして映る。
呼び止める間すら惜しかった。それはすぐに消えてしまう。そんな予感があった。
骸は吸い込まれるよう前へと歩みを進めた。
意識にあるのはただひたすらそれの存在だけだった。
くるり。
それは身体を反転させ、こちらを向く。
あぁ。やはり夢の通り。
あどけない笑みを浮かべ、骸の方に視線を投げかける。飴色の瞳は甘たるい。
おいで。
言わんばかりにそれは骸を見つめ、小さく首を傾けた。それから、踵を返し、また向こうへと歩き出してしまう。その仕種は骸から逃げるため、というよりは着いて来てとでも言うよう。
何かを考える必要は無かった。骸の足は誘われるままに独りでに動き出していた。



――三番ホーム電車が参ります。



風が髪先を攫うよう強く吹いた。
視界の端に人工的な光がまばゆく映った。
電車が来ている。
気が付いた時、骸の足はほとんどホームの外へと伸ばされていた。



「危ないっ」



悲鳴のような叫びを聞いた気がした。
同時に、しがみつくよう、誰かの腕が骸の身体に回される。後方へと思いきり引っ張られた。

――!?

随分とほっそらとした腕だった。その力も容易く振りほどけそうな程。
けれど。
それは、あまりにも咄嗟のことだった。骸はよろめく。
倒れそうになった自身を立て直そうと、片足を少し後ろに引く。なんとか踏み止まった。
瞬間。
骸の目の前を電車が過ぎていった。
自分はあと少しで死ぬところだったのだ。他人事のように思った。
いけない。まだ夢から抜け出せていない。
目の前に電車が止まる。入口は骸から少し離れたところだった。
扉が開きます。アナウンスが響く。

「……よかった」

背中で、小さな呟きがした。辺りのざわめきに紛れることなく、それだけはたしかな言葉として聞こえた。他の音がまるで全て無音になったような錯覚すら覚えた。
ぞく、とするような既視感。骸はその感覚をよく知っていた。
自身に回されたその腕をそっと解く。骸は振り返った。

「君は、」

骸は目を見張った。言葉を紡ごうにも、その仕方を忘れてしまったらしい。しばし沈黙した。
骸の視線より少し下。琥珀色の双眸がこちらを見上げていた。
どこまでも澄んでいて、覗きこめそうなほど真っ直ぐな瞳。飴のような甘たるい色。
笑みは浮かべていなかった。目の前の彼は骸を誘うよう艶かしい視線を送ることも、婀娜っぽく唇を歪めることもしない。
けれど。
目の前にいるのはたしかに“それ”そのものだった。
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