‡short story‡

□少年の選んだ方法
1ページ/19ページ


「っ……」

堪えきれなかった呻きが唇から洩れた。
じんじんと痛む唇の端に、

――切れてたんだ。

なんて他人事のように思った。血の味すら感じられない程に感覚は麻痺していた。
辺りは静寂に包まれている。授業時間外の体育用具庫に人が訪れることなど滅多にないのだ。
先程までいた不良達も皆、僕を痛め付けることに飽きたのか去っていった。
腕、脚、背中、腹部。全身を容赦なく殴りつけられ、踏みにじられた。骨までは折れていないようなのは不幸中の幸いか。
自ら傷をえぐることになるのも構わず僕は唇を噛んでいた。
金が目当てなんじゃなかったのか。よくもまぁ、こんなくだらないことに時間を費やすものだ。さっさと金だけ奪って逃げればいいのに。
ずきずきとする身体を起こして、周辺に散らばった自分の物を拾い集めにかかった。埃と砂の積もった床を膝を擦って歩いた。
ノート、ペンケース、さらにはその中身までも散らかされ、定期、家の鍵に至るまで鞄の中のものは全て打ち捨てられていた。財布は半開きになった入口のすぐ傍に転がっていた。
僕は痛む身体を引きずるようにして、そちらへと這っていく。
一応中身を確かめてみたが、当然のことながら紙幣は全て抜き取られていた。妙に軽いと思ったら小銭さえも全く無くなっていた。
どこまでも意地の汚い奴ら。
僕は先程まで不本意ながら一緒にいた彼らのことを脳裏に思い描いた。
名前は知らない。前の学校で僕をイジメていた奴らと同じような格好をして、同じような言葉を吐いていた。
見てるとむしゃくしゃする?
お互い様だろう。

――あぁ、またか。

彼らに絡まれた時、僕の中に生まれたのは蔑みにも似た感情だった。
他にすることはないのか。同じことしかできないのか。
弱者を虐げて何が楽しい。
鞄の中に放り出されたものたちを黙々と戻していく。
こんな嫌な場所、早く去るに限る。
と言っても、明日からここに呼び出され続けることになるのかもしれないけど。奴ら、体育用具庫を縄張りみたくしているみたいだったし。
……早くしないと、下校時刻を過ぎてしまいそうだ。
窓は無いが、扉の隙間に夕暮れ時の空が広がっているのが見えた。
六時には校門が閉まって出られなくなるのだという話を、たしか担任教師がしていた。
はぁ。思わずため息が漏れた。
なんとか荷物をまとめ鞄に押し込んだところで、それを片手に立ち上がる。
その時だった。
ふらついた。
鞄の重みに引きずられる。床に倒れそうになった。
思いの外、身体はダメージを受けていたらしい。
近くにあった沢山サッカーボールが入ったカゴに衝突した。
がしゃん。
大きな音を立ててしまう。

「誰かいるの」

外から声が響いた。この空間に不釣り合いな澄んだ声だった。
僕は知らず息を呑んでいた。僕は何一つやましいことなどしていないのに。
体育用具庫と外とを繋ぐ僅かな扉の隙間。そこから、そっと窺う。
誰かがこちらへと歩いてきていた。
この学校の制服を着ているところから生徒だと分かる。
色素が薄いのか、髪は柔らかな茶色。けれど、僕に絡んできた奴らのようなチャラチャラとした感じは受けなかった。
こちらを向く瞳も同じ、淡い色彩だ。きれいな色、だなんてこんな時なのに思ってしまった。夕日に溶けてしまいそうだ。
僕が言うのも難だけれど、彼は男子生徒にしては小さくて随分華奢だった。制服で無かったら分からなかったと思う。

「もう六時になるから、門、閉まっちゃいますよ」

彼は近付いてくる。
僕はその左腕に他の生徒は着けていなかったものを見出だした。
腕章。金色の縁取りがしてあった。“風紀”なんて文字が赤に縫い付けられているのが見える。
風紀委員?僕はアーデルハイトが似たような腕章をつけていたことを思い出す。
いや、違った。彼女の所属は粛清委員会だ。

「……今、出るから」

いよいよ倉庫の扉を開かれそうになったところで、僕は向こうの彼に言った。呟くような小さな声だったけれど、一応届いたらしい。
扉が今以上に開かれることは無かった。相手が歩み去る様子も無いけど。
どうやら、僕が出るまで待つつもりらしい。
鏡が無いから分からないけれど、僕はひどい有様に違いなかった。
視線を下ろしてみるだけで、ズボンが少し破けているのが見えた。さらに、床に倒れていたせいで白っぽくなってしまっている。
あまり人には会いたくないけれど、仕方が無い。多分、彼は僕が帰るのを見届けるまで去らないつもりなのだろうから。
僕は扉に手をかけた。金属製のそれはひんやりと冷たい。
どうしてだか、彼が僕の汚れた姿を見て眉を顰めるであろうことを想像すると嫌だった。
無意識の内にできるだけその瞬間を先延ばしにしようとしたのかもしれない。少しずつ扉を引いた。
ガラガラと音が鳴った。
広がった入口から差し込む夕日が用具庫を赤く染めていく。
僕は外に出た。
すぐ傍に彼は立って待っていた。
近くで並ぶと一層その小ささが感じられた。
風が吹く。彼の腕章を悪戯のようにはためかせた。
僕の身体も通り過ぎていく。
閉塞感に慣れた身体には、なんだか妙な心地がした。触れる新鮮な空気にまた、くらくらする。

「大丈夫!?」

ぐらついた僕に、慌てたよう彼の手が伸ばされた。

「ほっといてくれていいよ」

助けなんて必要無い。僕は慣れてる。
差し出された手を避けて、校舎の本棟に向かって歩きだした。駆け出すのも億劫でボロボロになった重たい鞄を肩にかけ、ゆっくりと進んだ。
彼に背を向けてから気がついた。
違う。
助けなんていらないなんて嘘だ。
僕は彼に疎ましいと思われたくないから逃げているだけなのだ。

「ねぇ、君」

彼の呼ぶ声。
後ろから、たっ、たっ、と駆け寄ってくる足音がした。
あぁ。ほら。
ただそれだけのことでこんなにも期待している僕がいる。

「何」

ちら、と振り向いてしまった。

「ちょっと休んでかない?」

微笑みを浮かべて彼は言った。
その瞳と同じように柔らかな調子だったけれど、思わず頷いてしまうような不思議な力があった。
次へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ