‡short story‡

□水葬楽
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薄暗くなりだした空。
映す海は深い色に沈み出していた。足元に寄る波だけが白く浮かぶ。
爪先の砂が波にさらわれて溶けた。それを追うように、綱吉はそっと足を進める。
生温い液体に少しずつ、包まれていく。その温度に先程まで辺りを照らしていた陽光をぼんやりと思い出した。足を踏み出す度、砂がぐずぐずと崩れていった。
構わず、水の中を進んでいく。
既に、海面は膝の近くにまで迫っていた。

――早く、見つけなくちゃ。

夕陽の淡い光しか頼りは無かった。
キラキラと水中に光るものを見つけ、濡れるのも構わず屈み込む。指先に触れた冷たさを拾い上げると、それはただの貝殻で。
嘆息すらできなかった。
手の平から落ちて、ぱちゃんと音を立てる。

――また、殴られるのかな。

彼からもらった指輪。裏には深くお互いの名前が刻み込まれていた。
結婚指輪みたいだなんて、柄にも無いことを思わずにはいられなかった。そんな綺麗なものではなくて、ただの呪縛に過ぎないのに――自分は彼のものだという。
なくしたと言って、ただで許してもらえるとは思わない。
暴力を振るわれたり、蔑まれたり。
それだけで済むのならまだいい。
けれど。
もし、彼が微笑んでしまったら。もう終わりだ。
殺される。
本当に殺される訳ではないけれど、綱吉にとっては同じことだった。
魂ごと傷めつけられるのだ。
寝台に捩伏せられ、無理矢理に唇を、呼吸を塞がれる。
愛してる。その言葉で耳朶を、鼓膜を犯される。
秘部を暴き、誇りも人格も何もかもずたずたに引き裂いて、彼は笑うのだった。
最初は“どうして?”なんて愚かなことを問うたりもした。

――どうして、こんなことをするんですか?

あまりにも理不尽な仕打ちに視界が滲んで見えなかった。けれど、彼の表情にはなんの悔恨もないことは分かった。

――君は僕のなんだから、当たり前でしょ?

今更、何を言うのだとばかりに返されて、この人に常識など通用しないのだと気が付いてしまった。
あぁ。両親は何故あの人に自分の子を託すような真似をしたのだろう。

――見つからない。

泣きそうだった。涙の流し方など、とうに忘れていたけれど。
いくら探しても見つからない。
純銀だと言っていた気がするから、海の底、奥深くに沈んでしまったのだろうか。

――あぁ。

このまま彼のところに戻って、断罪されるくらいなら。

――死んでしまいたい。

願わずにはいられなかった。
死んだ方がましな気がした。
このまま、この海の中で溺れ死んでしまいたい、と思った。

「死にたい」

知らず、言葉が口をついて出ていた。
辺りを包む夕闇で足元がよく見え無くなっていた。黒い水面がゆら、と揺らぐ。
波の音が遠く響いた。
危うくつまずきそうになって慌てて体勢を立て直そうとする。
その時だった。
背後から、突き飛ばされた。
水面が乾いた音を立てる。砂に膝がついた。
咄嗟に伸ばした手も虚しく、海の中に倒れ込んでいた。
あ。叫ぶ間もなかった。
泡が唇の間を擦り抜けていく。

――くるしい。

身体を起こそうとしても、押さえ付けられてしまっていて叶わない。泡だけが虚しく音を立てる。

「死にたいんでしょ?」

彼の声だった。
水を震わし届いたその音は歪んで聞こえたけれど、綱吉には分かった。
彼に、よりによって彼に聞かれていたなんて。
綱吉の帰りが遅いから探しに来たのか。

「殺してあげる」

穏やかな声音。
怒らせてしまった。綱吉は悟った。これまでになく、彼は憤っていた。
す、と頭を押さえ付けていた手が離れた。
そのままでいたら窒息できたのに、綱吉は思わず顔をあげてしまっていた。
喘ぐような呼吸を繰り返し、空気を求める。何度息を吸っても、満たされなかった。苦しくて堪らなかった。
また、彼に頭部を掴まれた。
もう一度、水の中に押し付けるつもりなのだろうか。恐ろしくなった。

「いや……やめ、て」

「苦しいの?」

がくがくと首を振った。

「死ぬのはもっと苦しいよ」

「もう、そんなこと言わないから……」

ふぅん。言って、男の手は離された。
支えを失った綱吉の身体は再度倒れ込みそうになる。屈みこんだ男にあぎとを捉えられ、なんとか止まる。
彼の方を向かされた。

「ねぇ、なんで死にたいだなんて言ったの」

ごまかせない。と思った。
彼の冷ややかな視線に堪えられなかった。
仕方なく、口を開く。

「指輪を……なくしてしまったんです」

「指輪?あぁ、僕があげたの?」

こく、と頷く。
と。
綱吉は次の瞬間、彼に抱き上げられていた。

「そんなに僕のこと大事に思ってくれてたんだ」

ぎゅ、と抱きしめられる。
濡れた身体に最早感覚は無かった。今が寒いのかどうかも分からない。
ただ、間近に迫った彼の黒い双眸が恐ろしくてならなかった。
不快感と恐怖が胸を渦巻く。
やめて。
はなして。
言葉にできる筈も無い。綱吉は堪え、ただ彼に身を委ねる他なかった。

「嬉しいよ。こんなに冷たくなるまで探してくれてたんだね」

そんなにこの身体は冷えきっていたのだろうか。
だとしても、それはきっと……彼が恐ろしくて、だ。
寒いからではない。

「帰ろうか。もう夕食の準備はできてるよ」

男は優しく言った。
酷く疲れていて、何も考えたくなくて。
綱吉は黙って静かに頷いた。





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