‡short story‡

□堕落
1ページ/3ページ


特に目立ったところも無い、ごく有り触れた町。人々は神を深く敬い、自分の時間を祈りの為に割くことを何の躊躇いも無く受け入れている。そんな町だった。
生活に必要な最低限のものを買い、また、その為に稼ぐような質素な日々を過ごす。そんな生活に不満を覚える者はいなかった。
領主である男も、特にその町を気にかけることは無かった。
反逆の意思を窺わせることのない、従順で扱い易い町。定められた税はきちんと納めるのだから文句などあるはずもない。同時に、その町に対する、興味も無かった。
ある噂を耳にするまでは。
最初に聞いたのは誰からだったか。忘れてしまう程にその噂はさりげなく、また、幾人もの口によって紡がれていた。
その町の教会には非常に美しい神父がいるのだという。
姿を見た者は未だいない。告悔の時の小窓越しでなくては会えないらしい。
鼓膜を震わす声は天使のごとき美しさ。その窓から覗く首は折れそうな程に華奢で、漂わせる儚さと品の良さが堪らなくそそるのと、ある貴族の男は夜会の折、声を潜めて語った。

「是非一度、お会いしてみたいものだと思いませんか」

領主は低く笑う。
禍々しい双色の瞳の為か。恐ろしく整った顔立ちの為か。内に潜めた歪んだ精神の為か。或いは、その全てか。
男はまるで、人をたぶらかし、破滅させるのを好むという悪魔のようだった。
日中の喧騒はすっかり息を潜め、外は夜に沈んでいた。
寝室にはカーテンが引かれ、ドアの側のランプが中を薄明るく照らしている。その下に立つ彼の従者は何の表情も浮かべていなかった。
男は物憂げな視線を窓の方に向けた。そんな仕種が彼にはよく似合った。溜め息を一つ吐いて、また視線を戻す。
領主は寝台の傍らに置かれたソファーに悠然と腰掛けながら、手元のカップを傾けた。唇を潤わせるよう、一口。そして、何か促すように従者に目を遣った。

「骸様、馬車を御用意致しましょうか」

有能なる従者は、やはり無表情のまま言った。







なんて、うつくしい人なのだろう。少女は思う。
彼を見る度、感嘆せずにはいられなかった。
整っているだけでなく、どこかあどけなさと繊細さを漂わせてもいる面立ちは勿論、彼の浮かべる表情が一層彼を美しくしていた。
優しく微笑しながらも憂いを湛えた、その上品な表情を少女は愛していたし、慕っていた。
彼はこんな鄙びた辺境の地の教会などには相応しくないと思う。
そう、昔から住んでいるこの地を、自分の仕えている教会を卑下したくなる程、男は優美だった。
彼のような者が仕えるものが神だというならば、たしかに神とは素晴らしいものなのかもしれない。
信心深いものでなくてもそう思わずにはいられないだろう。少女は思う。

「神父様」

聖書に目を通している彼を呼ぶ。
だいぶ小さくなった蝋燭の灯を頼りに、何やら、また勉強しているらしい。そんな勤勉さも、少女は尊敬していた。

「どうしたの」

男は顔をあげる。薄く金がかった茶髪が揺れた。机に置かれるランプを映して、煌めく様子に少女は見惚れてしまう。
見上げてくる琥珀の瞳は光を閉じ込めているかのようだ。
言葉をのまれそうになりながら

「告悔をしたいって人が来てる」

と告げる。時々、自分の紡ぐ音などが彼に触れていいのだろうかと不安になる。
優しい彼は、きっと、そんなことはないと否定してくれるだろうけれど。

「告悔を」

男は驚いたように、二、三度目を瞬かせた。そんな些細な仕種にさえ品があった。
たしかにこの時間は遅すぎる。少女は思う。

「また明日、来てもらうことにする?」

尋ねる。彼の予定を伺うような調子にしてみたけれど、本当は自分が彼と二人きりでいたいだけ。
そんな、美しくない独占欲に彼は気が付いているだろうか。不安になりながら、返事を待つ。

「うぅん。オレ、今から行くよ」

ぱたり。彼は聖書を閉じた。

「神を必要としている人に、オレができるのは話を聞くことくらいだから」

それくらいはせめて、いつでもできなければね。微笑んだ彼に少女は膝をついて赦しを乞いたくなった。
けれど。
その必要はないとでも言うように、

「凪、その人のこと、告悔室に案内してもらえる?」

と彼は優しく命令を告げてくるのだった。
言いながら、彼は壁にかけてあった上着を羽織り、部屋を駆け足で出て行ってしまう。
どうして、あの人はあんなにも人に尽くすことができるのだろう。少女はしばし、独り残された静寂の余韻に浸っていた。
うつくしい人。
やさしい人。
少女は机の上で揺らいでいるランプの灯を消した。そして、男の消えた扉に続いた。
次へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ