臆病者の幸福論
□ばかだね、わかってよ
1ページ/2ページ
「……ゲホッ…失礼します……」
「…ワォ、どうしたの?」
昼休み、
いつもなら応接室から数十メートル向こうまで近付いてきた時点でその存在に気付く程騒がしく駆けてくる彼女が、
今日は足音一つ立てず、
ガラリと静かに引き戸を開けた。
失礼します、
なんて普段なら有ってないように聞こえる礼儀も、
今日だけはまともに聞こえて異様だ。
潮らしい君なんてなんだかとても気味が悪い。
「どうかしたの?」
「いえ……問題ありません…無問題です…本当……ゲホッ」
馬鹿っぽい発言と一緒にフラフラと室内へと歩を進めて後ろ手に戸を閉めると、
誘われるようにソファーへと腰掛けた君。
否、
沈んだ君、
っていう表現の方が多分合ってる。
ぐったりと持て余したみたいに背中が背もたれを滑り落ちて、
ボスっと横たえられた小さな体。
「…………」
こんな所まで来て明らかに気だるそうに寝そべったりしておきながら問題ないなんて言えるのは、
きっと心配させまいと気を遣うなんてこともできなければ、
思考力も理解力も足りない誰より馬鹿で構われたがりな君だけだろうね。
「何?具合い悪いの?」
「…いえ…問題ありません……」
手にしてた書類を放り出して歩み寄れば、
いつもならお仕事終わりですか?と跳ねてはしゃぐ君なのに、
今日は唸るような声を上げるばかりで体は動かない。
すぐそばまで来て視線を合わせ、
膝をついて様子を伺うように垂れた前髪をかきあげてやれば、
「わゎ…雲雀さん…ゲホッ……近いですよ……」
「黙って」
こんな状況でも僕に照れることは忘れない君は下唇を噛み締めて恥ずかしそうにギュッと瞳を綴じた。
心配しなくても、
キスなんかしてやらないよ。
キュっと窄まった顔を覗き込めば、
ボゥっとほんのり紅潮した頬に、
走ってきたわけでもないのに荒く不規則に乱れた呼吸が見てとれた。
僕が接近しているという理由でいつも起こす動悸とは明らかに違う。
うっすらと汗ばんだ額にそっと触れれば、
予想通り、
掌にじわりと伝わる高い熱。
「ワォ、なんとかは風邪をひかないなんていうの、
信じてたけど間違ってたみたいだね」
「なんの話ですか…?どこのお馬鹿さんが風邪引いたんですか…?」
可哀想にと続ける君に、
ここにいるのは君って馬鹿だけじゃない、
と指先で熱く火照った額を軽く弾くと、
「痛っ…病人にはもっと優しくすべきです……ゲホッ」
遠回しに自分が馬鹿だと認めた間抜け面が唇を尖らせた。(多分当の本人は自分で認めたなんて気付いてないだろうけど)
普段なら、
時間を問わず現れる君なんか馬鹿じゃないのと軽く小突いてもうじき始まる午後の授業へと追い出すところだけど、
この場合そうもいかないんだろうな。
こんなのを放り出して廊下で死なれたら困るし、
片付けるのも面倒だ。
それに、
なにより君っていう退屈しのぎを失うのはたまらなく嫌だ。
咬み殺す相手なんてすぐ底をつくし、
すぐ飽きる。
君だけなんだ、
いつまでもからかって遊んでいたいなんて思える馬鹿は。
「保健室行って休んでたら?ここよりはましなんじゃない?」
「…雲雀さん…気持ち悪いくらい優しいですね…」
「やっぱりここで今すぐ楽にしてあげようか?」
「そ…その棒しまいましょうよ…頭痛が益々痛くなります…」
「ワォ、熱で日本語までわからなくなったのかい?」
「あ…じゃあお姫様抱っこで連れてってください」
「馬鹿じゃないの」
脈絡のない言葉のやり取りと、
熱にうなされて一段と馬鹿さの増した君の馬鹿馬鹿しい要求に、
大袈裟な溜め息はごく自然に吐き出された。
だってそんなことしたら、
不甲斐なく鳴るこの胸の音が君に聞こえてしまうじゃない。
君は重たそうだし、
なんてごまかすように言ってみると、
確かに最近2キロ太ったからやっぱりお姫様抱っこは無しにしてください、
なんて今にも泣き出しそうな顔で返された。
君の体で2キロだなんてたかがしれてるのに、
何をそんなに嘆く必要があるのやら。(そういうところ、どうにも男の僕には理解できない)
自分で発した台詞にひどく落ち込んだらしい彼女の顔が、
枕にしていた腕から滑り落ちてソファーに沈む。
「…うぁ……冷たくて気持ちいいかも…」
来た時よりも更に赤みの増してきた頬を真っ黒なソファーへと擦り付けて、
まるで猫みたいに気持ち良さ気にうっとりと目を細めたけれど、
その表情はすぐさま辛さに歪んで汗の粒が額を走った。
態度だけ見ていれば無駄に元気ではあるけれど、
実際はそれ程余裕もないらしい。
まったく、
こんな時ぐらい素直に大人しくしてたらもっと優しくしてあげれたかもしれないのに、
どうして君はこうも馬鹿なんだか。
どうして僕はこうも素直に労ってやれないんだか。
.