臆病者の幸福論

□こちら、返却不可能になります
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朝のざわめきを忘れて、
シンと静まり返った校舎内。

時計の針は1時間目の授業の始まる時刻をとっくに回っていたけれど、
私は今、
訳あって教室の固い木椅子じゃなく、
保健室の丸椅子に腰かけている。


「ワォ、随分派手にやったね」


それも、
大好きで大好きでたまらない、
風紀委員長雲雀恭弥を目の前にして、だ。

長めに伸びて日頃から校則違反だなんだと叱られていた前髪を綺麗で細いその手にかきあげられて、
灰色の瞳が見詰めているのは私というより鼻の頭と額に出来た大きな擦り傷の方だとわかっていながらも、
視界を埋め尽くしてしまうほどの近距離に心臓は大きく躍動していた。


「本当、君っていつも何も無い所で転ぶよね、
ある意味才能じゃない?」

「…だって…校門のとこ曲がったら雲雀さんの背中が見えたから…慌てちゃって…」


真っ青な空がどこまでも広がる清々しい朝、
遅刻寸前で校門をくぐり抜けた先に見えた真っ黒な学ランに当然のように胸は逸り、
心より先に走り出していた体は脚がもつれるなんてことも想定できずに、
彼の言う通り、
段差もなければ僅かな凹凸すらない玄関先で私は豪快に転んだ。

ムクっと起き上がった時、
駆け寄ってきた雲雀さんは顔面に怪我を負った私を見るなり呆れたような顔で笑い、
普段あまり笑わない彼のその表情が私にはあまりにも眩しく見えて、
そんなあなたにぼうっと見とれるこの間抜け顔は、
真上に広がる青空にまで、
クスクスと笑われた気がした。

何もないところで転ぶ才能なんて、
あったとしてもちっとも嬉しくはないし、
転んで負った擦り傷は物凄く痛かったけど、
こうして雲雀さんと朝から2人きりになれるなんて幸せがついてくるなら、
こんなことぐらい何でもないし、
笑われたってどうってことはないけれど。



「ワォ、人のせいにしないでよ」

「そうじゃないですけど…少しでも早く…顔、見たいなって思って…」



キィと、
普段は苦手なシャマル先生が座っている背もたれ付きの回転椅子を引き寄せたあなたは、
向かい合うように私の前へと椅子をセットして腰かけた。

“嬉しいこというけど、怪我なんかしてたらなんにもならない”
と小さな溜め息を吐きながら長い脚を組んで肘置きに頬杖をつくと、
古びてたその椅子はギィと軋んだ。


「………ごめんなさい」

「今日はあの猥褻保険医も留守だし、
僕がいたから良かったけど、
1人の時にこんな怪我してあの保険医と2人きりになったりしたらどうするのさ」

「…………ごめんなさい…」


二度目のごめんなさいは、
少しだけ顔が綻んで、
浮ついた声になってしまった。
だって、
優しいんだもん、雲雀さん。
怪我の心配もそうだけどそれ以上に、
シャマル先生への軽いヤキモチみたいのが凄く凄く可愛くて、
優しくて、
こんな状況だし、
我慢しようと思ったけど、
そんな意思とは裏腹にほっぺたは勝手にフニャリと緩んでた。


「何笑ってるの?」

「……ひゃっ」


そんな私のだらしない笑い顔のせいなのか、
彼の声色が少しムッとしているような気がして慌てたけれど、
それ以上に、
突如額に走ったピリピリとした痛みに驚いて、
雲雀さんのご機嫌どころではなくなってしまった。


「…い…痛いです雲雀さっ……」

「当たり前じゃない、結構酷い傷だからね」


とっさに閉じた瞼を恐る恐る持ち上げて見れば、
目の前にはピンセットを握った雲雀さんの綺麗な手。
いつもあんな乱暴なことばかりしてるくせに、
近くで見てもやっぱり綺麗だ。
なんておかしなところで感心していると、
再び額がヒリと痛んで、
そのピンセットの先端が消毒液を含んだ脱脂綿を摘んで、
傷口に押し当てられているのだとわかった。


「……あ…ありがとう…ございます……です…」

「いいから、黙って」


ほっぺたが異常なくらい熱く感じるのは、
多分傷口に沁みる消毒液の痛みのせいだけじゃない。

黙ってと言われて(言われてなくても多分緊張で言葉は出なかったと思うけど)、
ぐっと唇を噛み締めて、
ただひたすらに、
痛みと跳ね回る心臓の苦しさに耐える。




シンとした保健室の中、
時計の針が回る音と、
カチャカチャと消毒液の入った瓶にピンセットが触れる音と、
それから私のドキドキだけが静かに鳴り響く。


窓の外には私を笑った空の青さが底無しに深く広がり、
この小さな保健室だけが世界から切り離されて青色の中にぽっかりと浮かんでるみたいな、
そんな錯覚を覚えた。


僅かな時間が、
とても長く感じられるのはきっと、
この瞬間がたまらなく幸せだったからだと思う。


普段なら大嫌いですぐさま蓋をしてしまいたくなるようなツンと鼻をつく消毒液の匂いすらも、
香水みたいに良い匂い、
なんて言ったら、
きっとあなたはまた馬鹿だねと鼻で笑うんだろうね。

真一に結んでいた唇が、
思わずフッと口角を上げてしまい、
ぼうっと見つめていた彼の瞳が傷口から私へと移されて慌ててふやけた口元を両手で覆った。

鋭い視線に見詰められて、
また叱られるかなと息を飲む。


けど、



「傷跡、残ったらどうするつもり?」



投げかけられたのは、
あまりにも優しさに満ちた声。
熱くなってたほっぺたを撫で始めたもう一方の綺麗なその手のせいで、
返す言葉を探すのには随分と時間がかかった。
触れる雲雀さんの指先が冷たく感じるのは、
私のほっぺたが熱過ぎるからなのかな?



「……ど…どうしましょう……お嫁には行けなくなっちゃいますか…ね……」



なんとなく口を割って出てきた言葉に、
雲雀さんはまたクスリと笑った。
滅多に見れない、
柔らかな笑顔。



「そんな心配しなくても、
初めからこんなの欲しがるもの好きなんているわけないじゃない」

「………それはちょっと言い過ぎです…」


ムッと唇を尖らせた口先だけの抵抗を、
ほっぺたを撫でてた指先が押し潰して、
あなたはまた不細工な顔だと笑う。

どんな意地悪なことを言われたって、
あなたが楽しそうに笑ってくれたら、
それだけで私の胸はキュンと軋む。


あなたのその、
目を細めて、
唇の端っこをほんの少し吊り上げるだけの緩やかな笑顔が、
私は多分何よりも大好きなんだ。



「じゃあ百歩譲っていたとして、
傷があるからいらないなんて言うなら、」



そんな笑顔が突如私に近づいてきて、

驚きに体を退けるより先に、
再び視界の全てをあなたの瞳に支配されて、
体はまるで時間が止まってしまったみたいにカチンカチンに固まった。


そして、








「その時は僕がもらってあげるから」









心配いらないよ、
と付け足して、
まだ消毒されていなかった低めの鼻の頂きをペロリと舐めた。

ジワリとした痛みと、
ザワリと肌が栗だつ感覚に、

これが夢なんかじゃないんだとわかって、
息をするのを忘れるほど、

私の胸は跳ね狂った。


けど、
肝心の頭の中はやっぱり上手く回ってはくれなくて、
驚きにガキガキとぎこちない動きしかできなくなっていた体は精一杯の力を振り絞って頭を縦に振り、


唇は、


「……ヨロシクオネガイシマス」


なんて、
まるでそれが覚えたばかりの日本語みたいに、
ぎこちなく言葉を紡ぐに終わった。


今伝えたい言葉は、
もっともっと、
沢山あったはずなのに。

今はただ、
嬉しさのあまり、
余計に口を開けば全てが泣き声に変わってしまう気がして、
再び唇を真一に結び直した。



そんな私にまた、
柔らかく、
クスリと笑って見せて、
痛みに気遣うように鼻先へ絆創膏を貼ってくれるあなたの優しさには悪かったけど、

どうか、

程良くこの傷が残ってくれますようにと、

窓の外を見上げて、


この日のプロポーズを笑顔で見守っていてくれたであろう真っ青なあの空に、


声にならない心からの願いを、
目一杯のテレパシーで送りつけた。






こちら、返却不可能になります


(例え傷物でなくても贈り先はあなた以外にありえません)







頼まれたって、
返却なんかしてやらないよ。




END

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