拝啓、雲雀恭弥様

□ラストチャンス
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けたたましく鳴るジェット機のエンジン音が遠くに聞こえる。
無機質で真っ白な機内に、
規則的な間隔でくり抜かれたように作られた窓の外には真っ青な空が広がっている。
僕はこの細長い筒の中に閉じ込められたような狭苦しい空間があまり好きではない。
けど今日だけは、
一度陸を離れてしまったそこは地上のどこにいるより広大な場所のように感じられて、
とても居心地良く思えた。
理由は簡単。
僕は今、10年近くの年月追い続いていた小さな希望をこの手に携えているわけで、
逸る気持ちがそんなどうでもいいことすら輝かせて見せるんだ。


僕は静かに息を吐いて、
プライベートジェットだからこそ味わえる僕のために誂えられた一人掛けの豪奢で柔らかなシートの背もたれに背中を沈めた。
少し離れた所で、
哲が忙しくノートパソコンのキーボードを叩く音が聞こえる。
静かなのは、久しぶりだ。
自ら設立した財団はともかく、
なにかと巻き込まれて鬱陶しいマフィアというやつは実に面倒で、
僕が一番嫌いな群れの塊でもある。
一度外に出れば否が応でも周りにはいつも人の気配があり、
落ち着ける場所はあまり無い。
けど、今僕を捉える視線はここには無い。
私用の中でも特にプライベートな用事のために飛ばしたこの機体の中には、
パイロットを除けば哲と僕以外誰もいないのだ。

僕はもう一度溜め息のように息を吐き出して、
胸ポケットにしまってある封筒を取り出した。

コーラルピンクの長方形にわけのわからない緩いキャラクターが描かれた子供っぽいそれは、
何度見ても僕の頬を緩ませる。
それと同時に『雲雀くんへ』とだけ書かれた宛名に、
胸が締め付けられる。
よくあるラブレターなんてものに封をするようなハート型のシールは、
何度も剥がしては張り直してを繰り返しているうちにすっかり粘着力を失って、
封はだらしなく開けられたままになっていた。

10年ほどの間、
僕は何度、この手紙を読み返したことだろう。
封筒の中から数枚の便箋を引き出す度に、
この手紙を始めて開いた時のことを思い出す。

後悔と絶望。
それから、
一気に、許容量を大幅に上回って溢れ出した、
君が好きだという感情。

それは苦しく、切なく、
泣くなんてみっともないことすら我慢ができなくなってしまうような痛みを伴う記憶の再生をし始める。
その中にいる彼女はいつだって笑顔でいるのに、
たまらなく胸が苦しくなる。
けど、
彼女と過ごした短い時間の中での会話や、
なんてことない些細なやりとり全てをまるで映画を観ているようにこと細かに再生してくれる記憶は、
退屈でつまらない何もないこの世界で僕が生きる、
唯一の活力にすらなってくれていたと思う。

カサっと乾いた音を立てて、
傾けた封筒の中から揃いのコーラルピンクの便箋を滑り出させて、
2つ折りになっているそれを開く。



“拝啓、雲雀恭弥様

お元気にしていますか?
なんて、さっき会ったばっかりだけど。”


今にも、君のあの笑い声が聞こえてきそうだと、
僕は目を細めた。

中学生の女子にしては下手くそで、
読みづらく癖のある丸文字。
だけど普段の会話をただ文字に起こしただけのそれは、
どんな小説や物語りよりも僕の胸を熱くさせる。

何度も何度も読み返しては君を思い出して、
内容なんて一字一句違えることなく朗読できるまで暗記してしまったけれど、

この下手くそな文字が愛おしくて、
子供っぽい文章が愛おしくて、
僕は君がくれた最初で最後のこの手紙を何度でも開いてしまう。



便箋なんて紙切れの中でだけ、
君は今もなお、息づいているのだ。



“さっきカレンダーを見て気がついたけど、もうすぐ夏になるんだね。
窓もないこの部屋から出られなくなってもう随分経つから、季節のことなんてすっかり忘れてたけど、
外はもうだいぶ暑いのかな?
雲雀くんはいつも涼しい顔してるから、そういうのも全然わからないんだよね。”




小さな子供を愛おしく思って眺めるような僕の瞳と(実際の子供を見てもこんな目はしないけれど)、
笑いかけてくるような彼女の手紙との間に、
いつものように幸せそうに笑いながらえくぼを作って、
これを書いていたであろう君の姿が浮かんだ気がした。

僕は分厚いガラスの向こう側にある青空に目をやって、
その中に彼女を思い描き直す。
あの頃となんら姿を変えずに、
透明度の低い水色が何処までも続く背景の中に、
君の姿は良く映えた。

君と過ごした数ヶ月。
梅雨の時期にも関わらず、
君と居た日は一度も雨が降らなかった。
見飽きてしまうほど、
この空に見下ろされていたなと思いながら、
数行置いて綴られているその先を頭の中で読み返す。




“そろそろ夏服に変わる頃かな?
並中の夏服はどんなだったっけ?
さすがに雲雀くんでも夏は学ラン着ないよね。暑いのは嫌いって言ってたし。
学ラン脱いだとこも見てみたいなんて言ったら、また気持ち悪いって怒られるかな。
だけど夏も、秋も、冬も、それからまた春も、
ずっと一緒にいられたら、自然にもっと雲雀くんのいろんな姿が見れて、
そんなことで怒られなくても済んだのかもしれないけど、
お願いしなきゃ見れないだろうから、怒られても我慢する!”



もっと、ずっと、一緒にいられると、
何の宛てもなく漠然と思っていた。
君がたどり着く行く末を知らなかったわけじゃない。
胸のずっと奥ではいつも、
時が止まってしまえばいいと思っていた。
否、切望していた。

でも君は、




“だから、ワガママ一個だけ。
今度、夏服でお見舞い来てください!”




いつだって自分の運命の残酷さを恨むこともせず、
いつもいつも、幸せそうに笑っていたから。

だから、
思って、しまったんだ。

もしかしたらあのまま、
何事もなく時間が過ぎて、
不安だとか恐怖だとか、
そんなもの全然忘れて、




“あ、でも、それに当たって不安も一個。”




ただ僕のそばにいて。
隣り合って同じ景色を眺めて。
つまらないだけの僕の人生は、
君の笑顔に彩られて。

凡人誰しもが行き着くような未来が、

僕らにも当たり前のように用意されているんじゃないかって。



そんなわけ、
あるはずないのに。




目の奥が、ズクリと熱くなって、
君を思い浮かべてた青空から手紙へと視線を戻した。
下手クソな丸文字が、
困ったようにまた、笑ってる。





“私それまで、
生きてられるかな?”






逢いたいよ、君に。
どうしようもなく。



これから僕がしようとしてることが無謀なことだとは分かってる。
僕の願い通りに事が進む確率は、
ゼロに等しいのかもしれない。

それでも、僕は。




ハラハラと、
頬を伝って落ちた水滴が、
コーラルピンクの封筒にいくつかの水玉模様を描く。


君が好きだ、
世界中の誰より、何より。


どうしてあの時、
そう伝えられなかったのかな。

君はこんなに笑っているのに、
どうして僕だけ泣いてるのかな。







不確かな希望、切なる願い。

ラストチャンス





君がこの手紙を書いた数日後、
君は僕の前から、
この世から、

消えてなくなった。


あれからもうすぐ10年。

タイムリミットは、もうすぐそこ。



(この手紙と胸の中に残った想いだけが、
君がこの世にいた証明)









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