Novel
□a long time ago
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まず目に留まったのは、ソファの肘掛けに置かれた色褪せた封筒。
破れかけた折り目と、よく見れば色が薄くなっているが文字が書かれている。
そしてその隣で、ひび割れたCDケースを手に取る息子が居る。
それを開けようとした時に、繋ぎ目が壊れかけているのか軋む嫌な音が響いてきた。
それは先程の封筒から出てきた代物らしい。
繊細な手付きで、破れかけたジャケットと歌詞カードを兼ねた紙を取り出し、捲って眺める。
一つ一つの動作は腫れ物を扱うかの如く丁寧ではあるが、朽ちかけているそれにとっては、とどめを刺すような行為である事には変わりはない。
しかしその眼差しは、昔を懐かしむ色をしていた。
俺と同じで、昔話に花を咲かす事を良しとしなかった。
触れれば話題を反らされ、しつこくすれば苦虫を噛み潰したような表情をする。
過去を嫌うあまり、自身を愛せないでいる。
否、嫌いなのではなく好きになれないのだろう。
……嫌な共通点ばかりだ。
そんな彼が、過去の遺物であろうものに大して珍しい顔をしているのだ。
普段はそんな表情さえ見せないというのに。
何故そうなのか。
想いを向けられたそれにどんな逸話が在るのか気になって、柔らかなソファに座る彼の背後に回り込む。
常は背を見せる事を好かないのに、柔らかそうな茶髪が揺れる事がなく、ただ気配だけを探っている。
───そのまま背凭れに手をのせたところで、ふと違和感に気付く。
肝心の中身が無い。
「無くしたのか?」
小さく耳許で囁けば、碧の瞳が同じで違う蒼を捉える。
「……始めから無い。」
もう随分前に無くしたきりだ───見つめていれば、静かに笑った。
しかしそれに気付いた途端、事も無げにすらりと告げられる。
そしてそれも束の間の笑みだった。
柔らかいその表情おろかあの表情さえも消え失せ、何時もの鉄面皮に戻っていた。
「探さなかったのか?」
「ああ。」
生返事の様な声に、余計に疑問が深まる。
「どうして?」
背凭れを乗り越えて隣に座れば、再び視線を向けてくる。
不機嫌そうなのは、些かいただけないが。
「探す必要が無いからだ。」
「は?」
「故意で無くしたからな。」
聞いてから直ぐに思考が働く──故意で無くす事など、普通は出来ない。
寧ろ言葉を間違えているんじゃないだろうか。
ならば理由は二つ位しかないと思っていれば、
「……戦友からの借り物だ。」
──米軍の時の、な───顔に出ていたのだろう、理由を嫌そうな顔をしながら話し始めた。
漸く会話らしい会話が出来る。
「返さなかったのか?」
そして一番の疑問をゆっくりと聞けば、
「ああ、返さなかったんだ。」
奴は死んだからな。
何の変化も起伏も感じない声で、答えが告げられた。
その感情の籠らない声には哀しくなったが、言われたその答えにやはりかと思った俺は、ひねくれているだろうか。
「……あまり音楽は聴かないが、偶々気に入ってな。」
話題に挙がっている代物を弄っていた手を止め、テーブルに置いて背伸びをする。
長い手足が宙を掻いて、そして何処か遠くを見つめる様に天井を見つめて、会話を続ける。
「だが、脳味噌をぶちまけて奴は死んだ。」
「お前がやったんだな。」
──その口振りだと──言えば、元より険しかった視線を更に吊り上げて睨まれる。
「よくお分かりで。」
「そりゃどうも。」
短く返せば、鼻で笑われた。
「皮肉な話が、その歌手が歌っているのは反戦の歌が多くてな。」
「嫌な皮肉だな。」
「……敵の諜報員だった。だが事実が判明するまでは明らかに仲間で、お互いにチームとして戦場に身を投じていたんだ。」
「……其処まで解っていて、何故捨てた?」
「所詮は裏切り者から借りたんだ、半分返すだけで上等だと思ってな。」
不意に胸ぐらを掴まれる。
「何だ、腹いせに殴るのか。」
「違う……胸糞が悪いのは当たりだが。」
──違う事で気を紛らわせる──言うや否や、唇を奪われた。
そのまま乱暴に舌を絡めてくるものだから、此方も相応の応えを返す。
意を汲んだ、と言えばまだ話は綺麗だろうが、別段そういう訳じゃない。
セックス自体嫌いじゃないから、断る理由がないからだ。
ただ、普段ならキスの時は目を閉じているソリッドだが、今日に限ってはじっと俺を見つめている。
熱情に揺れてはいるものの、何処か悲しげだ。
それだけは、嫌だった。
……俺はこの瞳を知っている。
ソファーに押し倒しながら思い出す───裏切った、裏切られた者の目だと。
離れた唇からは唾液が糸を引き、二人して息を荒くしていて。
「っ、あ……」
無防備な首筋に噛み付けば、意味を持たない声が漏れる。
甘い言葉なんて無い。
獣同然だ。
快楽を貪る為だけに、愛撫を施すだけ。
興奮醒めぬまま、互いに互いの衣服を剥ぎ取っていく。
……あの時と似ている。
俺も裏切られた事がある。
戦友に。
否、愛した者に。
(理由が理由だった)
だから俺も裏切った。
そして最期に、最高で最悪で悪趣味なセックスに誘ったのを覚えている。
奴も知っていてそれに乗ってきた。
後にも先にも、それが奴との最後の交わりだった筈だ。
丁度今と立場は逆だが、あの時も今のような前戯だった筈だ。
ただ無心にやった。
──俺は、本当は泣きたかっただけだ──あの時、ただ喘ぐ事しかしなかったけれど。
何故裏切ったと、怒鳴り散らして泣き叫びたかっただけだった──……胸が苦しくなって、動きを止める。
「っ……ど、うした?」
中途半端の状態で放置されたのだ、そう聞きたくもなるだろう。
事実、俺の手は奴自身を愛撫する為にそれを手に握っている。
「否……何でも、っぁ!」
「無い、訳っ……無いだろう?」
急な事だったから、情けなく声があがる。
体勢をずらしたかと思えば、逆に俺のが掴まれて快楽を与えられる羽目になったからだ。
「もう歳か、親父殿?」
「違、う……っ!」
「なら、何で浮かない顔をするんだ?」
粘性のある水音が耳に痛い。
それ程迄に興奮していたのかと、羞恥と快楽と理性が鬩ぎ合う。
「ぁ、ちょ……っと待て!」
「……。」
掴んでいた手を何とか押し留めさせる。
他人から見ればかなり間抜けな状態だと、思わず苦笑いを浮かべそうになったのは言うまでもない。
「……本当にどうしたんだ。」
今日のあんた、変だ。
言われなくても解っているさ。自分が一番理解している。
返事を返すわけでもなく、曖昧な笑みを浮かべて触れるだけのキスを贈れば、不安そうな顔をされる。
「……昔の事を思い出しただけだ。」
今度は正直に話せば、更に顔が歪んだのが見えた。
これじゃあ空気が台無しだ──すまない、困らせたい訳じゃないんだと謝れば、何故か抱き締められた。
「おい?」
「親子揃って似たり寄ったりってやつなんだな……」
溜め息混じりに言われた言葉に、自然と同意の言葉が口をついて出た。
「気持ちはどうあれ、あんたまで俺を裏切らないでくれよ……」
「ソリッド……」
「信じる事を止めたのに、思い出させたのはあんたと親友なんだ。」
囁かれる声に、自然と顔が歪む。
あの時、俺もこの言葉が言えたなら……未だ裏切り者を想い続けるこの気持ちも、少しは楽になっただろうかと。
「……俺はもう、誰も裏切らないさ。」
告げた言葉の意味は、どちらだろうか。
"本当に信じているから、裏切らない"
"裏切るも何も、初めから信じていない"
───未だ振り切れない俺は、あの時から変わっていない───
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