一言で例えるなら黒。でも、白い画用紙を塗り潰したような真っ黒じゃない。
すりガラスを黒のクレヨンで塗ったように、所々ぼやけていた。それがあの日、お父さんのいる病室へ私が歩いた記憶の残像だ。
廊下はとてつもなく長かった気がする。どこまで歩いてもたどり着けないようで気が遠くなった。
非常口のサインが足元を時々照らして道しるべのように私たちを病室まで導いた。
病室に入ってからのことはほとんど覚えていない。病院へ向かうタクシーのなかで、せめてお父さんの最期の顔くらいはしっかりと心の奥に焼き付けようと思っていたのに。
お母さんやおばあちゃんがどんな風にしていたか、なんて論外だ。
家に戻って部屋で一人になってからようやく我に返った。ベッドシーツに顔を埋めて、声を押し殺して思い切り泣いた。
二週間前の出来事だなんて到底思えない。あれから過ごす一日一日はとてつもなく長くて、もうずいぶん前のことのように感じてしまう。
お父さんがこの世界からいなくなったという現実を受け止められないのは、きっと私だけじゃない。みんな一緒だ。
和明もお母さんも。あれはやっぱり夢でしたって、お父さんが夜遅くこっそりと玄関を開けて帰ってきてみんなを驚かせてくれるような期待感がどうしても拭えない。
そこまで話してから胸が急に重苦しくなった。何かが胸でつっかえているような感覚がする。
それを解消するために私は息を長く吐いた。吐いた分、自然と長く息を吸い込み何度かそれを繰り返して深呼吸する。
一人で抱え込んでいるのは苦しいこの胸の内を、この人に話したくて毎日ここへ駆け付けるのに、話せば気が重くなるなんて身勝手な自分にいらいらする。
窓際に座ったまま黙って話を聴いていた彼がペットボトルの蓋を開ける。やっぱりいつもと同じタイミングだ。
ペットボトルを持っている左手の親指と人差し指で器用にくるくると蓋を回す。
彼はきっと左利きなんだとこの二週間で私は勝手に思っていた。
直接口をつけずに彼は炭酸ジュースを大きく口を開けると上から注ぎ込んだ。
ジュースが鮮やかに弧を描き、次の瞬間にはごくりと上下する彼の喉元を見つめる。
髪を伸ばして化粧をすれば、私なんかよりずっときれいな姿を容易に想像出来てしまう彼を男の人なんだと確認する習慣みたいになっていた。
彼はいつも私の話に否定も肯定もしない。先を促すような言葉を言う訳でもない。かといって話の腰を折るようなこともない。聴いてくれているだけの姿勢。
初めてこの場所で会ったときから不思議な人だとは思っていた。
今日で二週間が経つけれど、不思議さはどんどん加速するばかりだ。
未だに私は彼のことを何ひとつ知らない。名前や年齢さえ知らない。
訊きそびれたという部分もある。でもそれだけじゃないのに、知らないままでいる理由に私は気付かないようにいつも蓋をしている。自分自身を守りたくて。
何も訊かなくてもなんとなく想像がつくこともあった。まずこの場所だ。
この洋館の存在を知る人は多くても、この部屋の鍵だけが常時開いていることを知る人はかなり少ないはず。
それに、二週間毎日同じ時間に彼はここに来る。そんなことが出来るのは、彼が地元の人で、フリーターとか大学生とか時間に融通のきく立場の人だってことになる。
あの日、お父さんのお葬式が終わった後すぐにここへ来て彼と出会った。
誰もいないと思っていたこの部屋に、彼は私よりも先に居た。黒のスーツを着ていたけれどネクタイを外し、シャツのボタンを開けていた。
他に誰もいない密室なうえに、この洋館には滅多に人が来ないことを私は知っている。
そんな危険な状態で見知らない男の人と二人きりなんて、普通の状態だったら怖くて怖くて仕方なかった。
でもあの時、彼に対してそういう類いの気持ちは少しも抱かなかった。
窓ぎわに座ったまま空を見上げていた彼がゆっくりこちらを振り向いた。彼の目から滴が流れ落ちた瞬間、彼が今まで泣いていたことを知ったからだ。
彼の涙の意味はわからなくても、名前も知らない男の人が私にとっての同類に思えた瞬間だった。
「こんにちは。私もお邪魔していいですか。父のお葬式で泣けなかったから、泣きたくてここへ来たんです」
正直に言った私を、彼は驚いたような表情で見る。それから直ぐに彼の視線は私の上から下までを往復した。
初対面なんだから、それくらい当たり前だと納得出来た。やや少しの間があってから、彼は小さく息を逃した。そして今度は私の目にはっきりと視線を合わせてくる。
なんて力強い瞳なんだろう。
「いいよ。その代わり、この窓ぎわのスペースは俺が予約ね」
予約なんて言葉はこの場所には酷く不似合いな感じがして、泣くはずだった場所で先ず最初に笑ってしまった。
不思議な出会いだった。あのときこの場所へ来ようと思わなければ、彼には出会えなかった。そう考えるとぞっとする。
お父さんは小さな頃から私のヒーローだった。初めてテレビでお父さんを見たのは幼稚園の頃だ。
園でも男の子たちがよく真似をする人気の戦隊もの。それにお父さんが出るなんてわくわくした。誇らしい気持ちだった。だけどテレビ画面の中にエンディングテーマソングが流れだしても、お父さんの顔を見つけられなかった。
改めてビデオを見ながらお母さんが私に説明してくれた。あの怪獣の中にいるのがお父さんよ。
それから私はお父さんを避けるようになった。騙されたような恥ずかしい気持ちになった。
でもお父さんは何も変わらない態度で私に優しかった。
小学生になってから私ははっきりとお父さんに言った。怪獣の中の人なんて、お友達に知られたら恥ずかしい。どうしてお父さんは、あのヒーローじゃないの。
娘に言われて傷つかなかったはずはない。でもお父さんは笑った。
−−−そうだね、ごめんな。お父さんも出来ればヒーローになりたかったよ。でもね、凛子。お父さんは怪獣の中の人をするお仕事をいつもちゃんとやりたいと思っているよ。だってな、凛子。怪獣がいなくちゃ、ヒーローはヒーローになれないんだ。だからお父さんの仕事は、とても大切なんだよ。
私にとってのお父さんがヒーローになったのは、その瞬間からだった。そのお父さんが死んでしまった。煙になって空へ還っていくのを見送っても、現実として受け入れるなんて到底無理だった。
空を見上げていた私に、親戚のおばさんが小声で言った。
「見送る人間が泣くと、仏さんは成仏出来ないからね。泣くんじゃないよ」
だから私は直ぐに泣くのを止めた。そして無性に一人になりたくなった。私を知る人がいないところに行きたくなって思い出したのがこの場所だった。
小高い丘の上に建つ古い洋館は幽霊屋敷と呼ばれていた。
住んでいたおばあさんが亡くなってからも、遠方に住む息子さんたちが、思い出の詰まった家を取り壊せないと言っている。そんな風にお父さんたちが話しているのを聞いたことがある。
一階のキッチンと二階のこの部屋の鍵が開いているのに気がついたのは、友達同士でした夏の肝試しがきっかけだった。
それ以来一人になりたくなると、自然にこの部屋へ足が向くようになっていた。
泣きたいとき、喚きたいとき、それから時間を忘れてぼんやりとしたいとき。
親には見せられない、見せたくない顔が17歳にでもなればいくらだってある。
「話、終わり?」
彼の声に現実に引き戻された。目の前に私の顔を覗き込む彼の顔がある。やっぱり男の人にしておくのはもったいないくらい綺麗だ。
一目見ただけでは、日本人か疑いたくなるほど彫りの深い顔立ち。薄茶色の瞳と同じ色の柔らかそうな髪が印象的だ。
それにこの落ち着き払った態度。私の話を聞いていても、彼はいつも静かにそれを聴き入れてくれる。年齢は二十歳くらいのように思えるけれど、実際はどうなんだろう。
「うん。終わりだよ。話せばまだいくらでもあるような気もするけど」
「だったら話せばいいのに」
「いいの。話がうまくまとまらないから」
「そんなの、いつも」
そこまで言い掛けて彼はしまったという顔をした。慌てて口元を抑えて、空を仰ぐ。それからごめん、と呟くように言った。
やっぱりこの人はいい人だ。嘘のつけない、それでいて、相手を思いやれる。私には出来ないことをごく自然にこなしてしまえる。
「いつもまとまらない話を聴いてくれてありがとう」
素直に敬意を込めて言えた私に、「You're welcome」とおどけた調子で彼は返した。簡単な言葉ではあるけれど、その流れるような発音にいつか観た洋画のワンシーンを思い出した。
やっぱり彼は純粋な日本人じゃないのかもしれない。私は改めてそんなことを思った。