rainy rainy

□其ノ陸。
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「ナイフ、ポケットに隠してるよな人に云われたくないよ」
 女の言葉をそう切り捨て、先輩は依然として態度を変えない。確かに其れは大人の女性に対する態度ではない気はした。だけど、咎めることは出来ない。今ならば、正当化される気もしたからだ。
「あらあら、隠してるの知ってるんじゃ、隠しても仕方ないわねぇ」
「其れに、知られている時点で既に其れは、隠しているとは云わない気がするけど」
「ま、何れ貴女か彼か、双方の体内かに"隠す"ことになるのでしょうけれど」
 ひゅんと空を裂く女の手中の一閃。一刹那後手にされていたのは、大振りな抜き身のナイフであった。
 遂に堪えかね僕が問おうとしたとき、先輩の空いた右手が其れを制した。
「お話は後」そして小声で続ける。「とりあえず、今は逃げよう」
「え……でも」
「彼女は本気なの」
「えぇ、私は本気よ。でもねー、逃げちゃうんじゃ仕方ないわね、どうぞ?」
 次の一閃で女の手からナイフが消えた。再びひらひらと揺れる両腕。
 先輩は意表を突かれたようだった。すんなり女が退いたことに対してだと云うことはなんとなくわかった。が、僕はまず、一から十まで何もかもが理解できていない……ごちゃついた思考、視界の中に先輩と女の姿がただぼんやりと在った。
「別に、消すのをやめたわけじゃないわ。ただね、逃げ惑う子羊を追いかけて首を落とすのは、私の趣味じゃないのよ。磔のキリストを端から切り刻む方が、私は好きなわけ」
「狂ってる。貴女は、そして貴女の"上"も」
「其れは貴女の身体に云うべきね」
 先輩は応えようともせず、右手で僕の手を引いた。其処で僕は感覚を思い出した。雨の音が、聞こえる。
 すれ違いざまにナイフで切りつけられんじゃないかと怖れたが、女は何もせずに先輩と僕の背中を見送った。
 口は開いたけれど。
「愛し合う二人のために、火葬は同時同炉でしてあげられたり、一緒のお墓にぶち込んであげられたりとサービス満点なんだけど、どうかしらね?」
 先輩は依然として応えようとはせず、黙って僕を連れ宿泊室に戻ろうと歩いた。其の足音さえも、怒りを主張している。
 廊下の角を曲がるとき、女に背を向けたまま小さく「死ね」と呟いた先輩の冷めた声を、僕は女に代わって受け取り、人知れず恐怖した。

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