創作
□起之章 桃ノ段
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「俺は誰だ」
清流の水面から、腕が生えた。
「ぶはあっ」
次いで頭を突き出し、一人の青年が川から這い上がった。
「はあ…」
川の水をふんだんに含んだ着物は重く、濡れそぼった髪からは雫が雨のように滴り落ちる。
「………」
水滴を払うべく頭を振り、呆けたように瞬きを繰り返す。
「…ん?」
ややあって、青年は己が腕に抱えている存在に気がついた。
「箱、か」
それは漆黒の玉手箱。緻密な模様が彫り込まれ、五色の紐で封が成されている。
豪奢なその箱を、何故自分が所持しているのか。
その理由を思い出そうとしたところで、更に重大な事実が判明した。
「俺は誰だ」
青年は、自身に関する事柄をすっかり忘れてしまっていたのだ。
しかし周囲に人影は全く見当たらず、視界には草木や岩石が広がるばかり。
己の正体を知ろうにも、応えが返されるあてが無い。
「ふむ」
ならば仕方ないと割り切って、青年は自身の身形を改め始める。
纏う着物は上等な布で仕立てられており、腰には袋が提げられている。
その袋の中に団子を見つけた時、ぺたぺたと足音が駆けて来た。
「おおい…やあやあ、見つかった」
併せて聞こえてきた声の元を辿り、顔を上げる。
ぱちりと瞬いた青年の瞳には、緑の影が写されていた。
…承之章 桃ノ段ヱ続ク…