創作

□承之章 浦島ノ段
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「…人は、   と呼んでいるわ」








「溺れた拍子に全部忘れた、思い出せないなんて珍しい。なかなか無いわよそんなこと」
「そ、そうかな…そう、だね」

 なかなか無いと言われれば、そうなのかと頷くしかない。
 なにせ記憶をすっかり無くしてしまったのだから。
 何が当り前の事なのか、その基準すら今この状態では判らない。

 幸い言葉や文字、物の名称は覚えていた。
 けれど、自分が今まで体験してきた出来事や、それに関わる人物の記憶がごっそり抜け落ちてしまっている。

「おらは…」

 誰なのか。
 何故ここにいるのか。
 自分が忘れてしまったものは何なのか。

 怖い、悲しい、寂しい、切ない。

 思い出そうとすればするほど、感情は絡み合って渦となり、心を強く締め付ける。

「それじゃあ、行くわ。出てくるね」

 胸を押さえて俯いていれば、すっくと少女が立ち上がった。

「え、どこへ」
「あなたはまだ寝てて、休んでて」

 焦った声と共に仰ぎみれば、おかっぱ頭をさらりと揺らし、赤い着物の少女は穏やかに笑った。

「顔色が悪い。真っ青よ」

 小さな掌で頭をゆるゆると撫でられれば、気恥ずかしさが更に増す。

「も、もう大丈夫だよ。ありがとう」

 視線を逸らして立ち上がり、回復した事を訴えた。やっぱり頭はくらくらするが、動けない程では無い。
 自分より幼い女の子に何時までも心配を掛けさせまいと、やや大げさに笑顔を作る。

「ふふ」

 けれどそんな事お見通しなのか、少女は可笑しそうに瞳を細めた。



「お手玉?」
「ええ、そう」

 縁側に腰掛け、少女と並んで庭を眺める。

 視界一面には色とりどりの花が咲き誇り、甘い香りが鼻を擽る。
 地面をつつく鶏の他、牛や馬もいるようだ。間延びした鳴き声や、鼻息交じりの嘶きが奥の方から聞こえてくる。

 穏やかで、恵み溢れる光景に心が洗われる。
 大きく息を吸い込めば、甘い花の香りの他に、湯を沸かしている匂いも感じた。

 この世の物とは思えぬ見事な風景を愛でながら、赤い少女に話を聞いた。

「ちょっとした知り合いに頼まれたの。溺れたあなたを助けてって、介抱してくれってお願いされたの」

 そうしてこの場所に運び込む途中、お手玉を一つ落としてしまったそうな。
 お気に入りの大事なお手玉。
 来た道を辿りながら探しに行くつもりなのだと、少女は言った。

「それならおらにも手伝わせてくれないかい」

 落とした原因に関わっていると知り、何もせずにはいられない。恩返しも兼ねて是非にと頼む。


「…恩返しの、恩返し」


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