創作
□承之章 桃ノ段
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「やあ本当に…人を攫ってしまう事もあるからなあ、 は」
ずぶ濡れの青年に駆け寄ったのは、緑色の生き物だった。
「やあやあ、随分下流まで流されちまったねえ」
鳥の嘴に似た口を動かし、水かきの生えた手で頭をぺちりと叩く。頭頂部には髪が生えていないのか、硬質な響きがした。
「怪我は無いかい?やあでも、兄さん丈夫そうだから問題なさそうだねえ」
「ああ、問題無い」
青年は自身の腕を軽く振って見せ、支障が無い事を伝える。
その様子に満足し、緑色の生き物は大きく頷いた。
その際、頭の上に白い皿が乗っているのを青年は視認した。
「そういえば、お前は誰だ?」
「え」
真面目な顔で青年に尋ねられ、緑色の生き物は瞠目する。次いで額に手を当てて呻いた。
「やあやあ、これはまた…兄さん、あいつの大風で飛ばされて流されて、それで記憶を無くしちまったと?やあやあ、こりゃ大変だ…」
「あいつ?大風?いや、知らん。これまで何があったか、全く分からん」
きっぱりと断言すれば、更に大きな溜息が返される。記憶を失った本人よりも、目の前の者の方が深刻そうな表情を浮かべていた。
「ううん…やあやあ、どうしたものか…こればっかりは、おらの薬も効きそうに…」
「『おら』?」
呟かれた自称の言葉に、青年が反応した。
真っ更で何も無い脳裏で光った、僅かな煌めき。
それが記憶を取り戻す手掛かりになると、青年は本能的に察した。
「『おら』・・・」
「ん?兄さん、何か思い出せそうなのかい?やあいいぞ。頑張れ兄さん」
「急かすな。余計思い出せん」
一転して顔を輝かせた緑色の生き物の声援に、青年は苦笑を零す。
思い出しかけたが、そこまでだ。はっきりと過去を取り戻す決定打ではなかったらしい。
またもや頭の中が更地になったが、青年は仕方ないと割り切った。
「まあ、いずれ思い出すだろ。お前は俺を知っているようだ。教えてくれ、俺の事」
「兄さんの事?やあやあ、おらが知っているのはほんの少しだけでねえ」
思い出せる程では無いと答えられ、青年は「そうか」と端的に返す。
昔の事を覚えていなくとも、今息をして腹を空かせているのは紛れもない自分自身。
命がある、意識がある。それだけで重畳だ。
「そうだ…別に、不満など…」
無い筈だ。
しかし、先程耳にした単語が心の底で消えずに残っている。
『おら』という言葉を、過去に自分は聞いた事がある?それは誰の口から?その人物は目の前の者ではなくて、違う誰か…
「…分からん」
分からない事が妙に悔しかった。
「兄さん。やあやあ、大丈夫さ兄さん」
唸る青年の肩を軽快に叩きながら、緑色の生き物は明るく笑った。
「やあ確かにおらは兄さんの事はよく知らん。けど、あの人ならたっくさん知っているだろうよ」
「あの人?」
目を瞬き、青年は首を傾げる。
あの人と言われても、当然ながら思い当たる人物はいない。
記憶を無くしている状態と言うのは本当に面倒だと、青年は嘆息した。
「ああ。向こうの方で休んでいるよ。やあ大丈夫。安全な場所にいるからさ」
「心配いらないさ」と励まされても、青年は答えに窮する。そう言われても、としか言えぬのだ。
それでも気遣ってくれている事が分かるので、その気持ちを青年は有難く頂戴する。
「記憶を無くしたと知っちゃあ、あの人も驚くだろうねえ。やあやあ、その様が目に浮かぶよ」
からからと楽しそうに笑う姿を見て、青年は僅かに眉根を寄せた。
緑色の生き物は、「あの人」とやらに会えば青年の記憶が戻ると確信しているようだ。
それほどまでに自分と繋がりの深い人物なのだろうかと、青年はただ首を傾げる。
「分からん。とにかく、会ってみるか」
会うだけ会ってみよう。青年はそう決め、玉手箱を抱えながら立ちあがった。
すると緑色の生き物が「おや」と目を円くした。