創作

□鋪之章 浦島ノ段
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――おらの名前を呼んで――




 気配無く現れた大男に身を固くしていると、その後方から大きな声が聞こえた。

「そこの背の高い、お前だ」

 呼ばれて大男が振り返る。
 そこで初めて視線が自分から逸らされ、そっと安堵の息を吐いた。

 声の主の姿はちょうど大男の身体に隠され、窺えない。
 無言を貫く大男に対し、一方的に何やら話しかけている。大男の知り合い、と言う訳ではなさそうだ。

 今の内に逃げたり隠れたりした方が良いのかと思案していれば、再び大男がこちらへ視線を向けてきた。
 びくり、と肩が震える。
 大男は青い瞳でこちらを眺め、節くれ立った太い指を一本向けてきた。
 その太く大きな体躯の陰から見えた、一つの人影。

「っ」

 息を呑むと、目が合った。
 その瞬間、人影が駆けて来る。

 それは上等な着物を纏った、年若い美しい男。木や山の精気が具現化したのかと、本気で思ってしまった。
 言葉を無くして見つめていると、青年は驚くほどの速さで距離を詰めて来た。苔むした石や背の低い灌木を飛び越え、あっという間に目の前に降り立つ。
 身軽な様子を披露した青年は、自分よりやや背が高かった。
 僅かにこちらを見下ろすと、彼は真剣な表情で口を開いた。

「『おら』って言ってみろ」
「え?」

 言われた意味が理解できず、聞き返す。

 命令口調のその文章が、自分に何を要求しているのか、それは分かる。
 しかし、何故自分にそれを求めるのか、という事がさっぱり分からない。

 突如現れた青年の突飛な言葉に目を白黒させていると、焦れた調子でもう一度繰り返された。

「おい、いいから『おら』って言ってみろ」
「え、え」
「いいから」

 眉を寄せ、瞳に力を込めて自分を見つめるその顔は真面目そのものだ。
 いったい何がそこまでこの青年の心を逸らせるのか、全く想像がつかない。
 けれどこのまま呆然としているのも失礼かと思い、とりあえず相手の要望に応えることにした。

「…おら…」
「…」
「おら…」

 口にすると、不思議な程に自身に馴染んだ。

 『おら』という言葉が自称の言葉である事は覚えている。
 ただ、それを自分も使っていたかどうかは覚えていない。

「おら」

 けれど、どうだろう。声に出せば出すほど、しっくりくるではないか。
 もしや自分は自身を呼ぶ際、『おら』と言っていたのか?
 うん、きっとそうだ。おらは、自分を『おら』と呼んでいたんだ。

「わ…」

 嬉しい。忘れていた事を一つ思い出せた。

 名前も境遇も一切無くしてしまったおらにとって、この発見は涙が出そうになるほど嬉しかった。
 大袈裟と思われても、本当の事だからしようがない。妙な命令をしてきた見ず知らずの青年に、感謝の気持ちが湧いてくる。

「ありがとう…君のおかげで、少し思い出せたよ」

 目尻に浮かぶ涙が零れないよう指で押さえ、心のままに礼を述べた。
 少し滲んだ視界には、目を大きく見開く青年の顔が映った。

「……だ…」
「え」

 すると青年は小さな音を漏らし、顔を俯ける。
 何か気に障っただろうかと不安になり、慌てて口を手で塞ぐ。
 そうしても、一度飛び出た言葉は帰って来ない。分かっていても、ついそうしてしまう。

 どうしようかと戸惑えば、青年ががばりと大きく顔を上げた。

 予測できない青年は、またもやびっくりするような言葉を飛ばす。
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