創作
□夜明け前の独奏-yoshio-
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――あの女が僕と父を捨てたのは、朝顔の花が咲いた日の事だった――
「さすが藤木君。正解よ」
示された問題を難なく答えた僕に、先生は満足そうな声でそう言った。
着席を許され、引いていた椅子を足で引き寄せて腰を下ろす。
掲げていた算数の教科書を机の上に置いて手を離せば、折れ目が付いていないため、それは簡単に閉じてしまう。
一瞬の内に現れた表紙には『小3 算数』という素っ気ない言葉と、赤と黄色の三角形が2つ中央に描かれていた。
3年生になって1カ月も経っておらず、新品の教科書は側面すら真白だ。
――『さすが』、ね……
学年が変わり、合わせて行われたクラス替えから、まだ1カ月も経っていない。担任の先生だって2年生の時とは別の先生だ。
そんな真新しい環境で先生が口にした言葉が耳に引っかかる。
よく知らない先生からも『さすが』と言われるほど、自分の学力は有名なのか。
そう考えるが、すぐに否定する。
確かに毎回テストで百点を取っているが、そんな奴は他にもたくさんいる。
一学年で、多くても3クラスしかない小さな学校では、生徒間の噂話なんてあっという間に広がる。
それによれば――詳しい点数までは知らないが――頭が良い生徒はこのクラスだけでも3人はいるそうだ。
他にも噂を探せば、あと何人か出てくるかもしれない。
つまり、僕が言いたいのは。
どうして先生が僕にわざわざ特別な言葉をかけたのか。
他の生徒と僕とで決定的に違う点は何なのか。
「……大丈夫?藤木君」
ふと隣の席の女子から声をかけられた。
おしゃべりでうるさい教室内では、その声は消されそうな程小さい。
しかし距離の近さと滑舌の良さもあって、僕の耳にはしっかりと届いた。
「大丈夫って、別に大丈夫だけど?」
「渋い顔をしていたから、お腹とか痛いのかなって思ったんだけど。大丈夫なら良かった」
ふふ、と大人しそうな微笑みを浮かべた女子の言葉にぎくりとする。
先生の言葉の理由を思っていたら、自然としかめっ面を作ってしまっていたらしい。
他人に内心を気取られるような真似をしてしまった自分に少し腹が立った。
「特に痛い所はないから大丈夫だよ。心配ありがとう、野見さん」
ちらりと横目で名札を確認してからそう応えると、女子は穏やかに笑い返し、再び黒板へと向き直った。
この女子も噂に上る秀才児で、他にも見た目が綺麗だとか、足が速いだとか、色々な話がくっついている。
ただ、クラスが同じになったのは今回が初めてであるため、それらの真偽はまだ分からないものが多い。
彼女はがやがやと騒がしい教室内でも背筋を真っ直ぐに伸ばして座っており、その姿は凛としている。
背中の中程まである黒髪も真っ直ぐで、視線も黒板にしっかりと向けられている。
ミーハーで噂好きの女子ではなく、こんな女子が隣であったのは幸運だったと素直に思えた。
校庭の桜は花を散らせ、緑の葉っぱが次から次へとその姿を見せ始める。
花壇に植わるチューリップも花開き、つくしやタンポポも道端で存在を主張している。
今年も春が始まった。
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