創作
□夜明け前の独奏-yoshio-
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4歳の時、僕は初めて朝顔を知った。
父さんが職場の人から貰ったという植物図鑑は子供向けに編集されていて、中を開けばふりがなを振られた大きな文字と、色彩豊かな絵が一面に広がっていた。
『春(はる)の 花(はな)』と書かれたページには、桜やチューリップの他、スミレ、パンジー、ホトケノザなどが記されていた。
淡い桃色から明るい赤色、はっきりとした黄色に薄い紫色など、色とりどりの花々に幼い僕は目を輝かせ、一つ一つの絵を指でなぞってはその名前を読み上げていった。
普段何気なく目にしている花には全て名前が付けられていると知ったあの時の衝撃は、今でもまだ思い出せる。
興奮冷めやらぬままページを繰って行くと、次は『夏(なつ)の 花(はな)』が現れた。
一番に目を引いたのは大きく描かれていた真っ黄色なヒマワリだが、一番印象に残ったのは小ぶりな絵の朝顔だった。
薄くて柔らかそうな青い花弁は縁がひらひらとしており、母の持つハンカチを思わせた。
花の中央から放射状に伸びる白い筋を指して「星みたい」とはしゃげば、隣に座る母も楽しそうに笑った気がする。
その時の表情は、あまり詳しく思い出せないが。
夜に帰宅した父さんへ、僕は飛びつく勢いで植物図鑑の素晴らしさを捲し立てた。
僕が珍しく興奮している様を見て取ると、父さんは凄く嬉しそうに笑った。
そしてその日は僕が喋りつかれて眠るまで、枕元で僕の話をずっと聞いていてくれた。
夏が始まったばかりの日の出来事だった。
それから一週間、僕は毎日植物図鑑を開いては、ページに踊る色鮮やかな花々を眺めていた。
当時、母は僕が外へ出る事を快く思っておらず、そのため僕が実物を見る機会は殆ど無かった。
本物を見て触れば、少しは熱も冷めていたのかもしれない。
しかしそれが叶わない事で図鑑への執着は薄まらず、飽きる事もまた無かった。
そんな僕をどう感じたのか、図鑑入手から一週間目の夜、父さんが今度は小さな袋をお土産にして帰って来た。
中には黒くて小さな、朝顔の種が入っていた。
これならベランダでも育てられるからと聞き、僕は飛び跳ねて喜んだ。
あまりうるさくしないでと母の声が聞こえた気がしたが、それは酷く小さな声で不明瞭な響きであったため、僕の耳には届かなかった。
その直後に父さんが困ったような、悲しいような顔をした事の方が僕の記憶に残っている。
翌日から茶色の植木鉢で育て始めた。
水は多すぎても少なすぎても駄目だと聞いて、僕は毎日1回だけ水をやる事にした。
ベランダに蛇口やジョウロなんて無かったから、コップやボウルを使い、台所で汲んだ水を慎重な足取りでベランダまで運んだ。
それまで家事の手伝い以外の時間を殆ど居間での図鑑鑑賞に充てていたが、朝顔を育て始めてからは場所をベランダに移し、植木鉢もその対象に加えた。
そろそろと、土の上へ円を描くようにして水を注ぎ、「早く育ってね」「何色の花が咲くかな」「青色がいいな」等、夢想する日々を過ごした。
土に触る事を嫌う母は植木鉢にあまり近寄らず、支柱を立てる以外、朝顔の世話は僕一人で行った。
蔓を支柱に上手く誘導し絡めさせる事も、父さんに教わりながら僕が一人でこなした。
祥生の朝顔だもんな。しっかり祥生が育てるんだぞ。
そう言って僕の頭を撫でる父さんが好きだった。
今はあまり笑わない母も、朝顔が咲けばまた笑ってくれるのだと、根拠もなくそう信じていた。
母が大切にしている、あのヒラヒラしたハンカチと同じ、青い花が咲けば、と。
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