幽遊白書

□記憶への回廊
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《霊界》

 満月の夜だった。
 
 家のベランダの手すりに立つ少年がいた。
 
 月影に映る美しい端整な横顔に憂いを秘めた淡い緑色の瞳。

 少し長めの髪が夜風に舞った。

 その髪を直す指先は細く白く長い。

 彼は月を見上げた。

―いい月だ。

 彼はそう呟くと音もなく月夜に姿を消した。


 霊界は心地よい風が少しだけ吹いていた。人間界と変わらないきれいな月を背に蔵馬はコエンマの所へ急いだ。

 コエンマからの呼び出しは久しぶりだった。コエンマとの付き合いは数百年にも及ぶ。

 人間界へと来てからは霊界からの管理下に置かれている事もありコエンマの呼び出しにはどんな些細な事であろうと躊躇せず足を運ぶ。

 しかし、何時もの事ながらコエンマの呼び出しは唐突である。

 出向くまで内容は解らない。

 こちらの事情は一切おかまいなしで使いをよこす。

 戦いを要する時であれば飛影をも呼びつけるであろう。

―しかし、今夜はオレ一人。という事は・・・・

 直接当事者に話しにくい内容であったりするとコエンマは決まって蔵馬一人を呼び出し、その損な役割を押し付けてくる。

 今までに幾度か苦い経験もした。その事を考えると多少うんざりもしたが、そうでなければ・・・

 蔵馬は口元に笑みを少しだけうかべ考えられるもうひとつの事を願ってコエンマの部屋のドアをノックした。

「蔵馬です。」

「遅いではないか、待っておったぞ。」

 コエンマのじれったそうな声と同時にドアが開いた。

 とてつもなく大きな扉の向こうでは細長い机と山積みの書類。

 そしてその机に寄りかかるようにして腕をくんで立っているコエンマがいた。

 その容姿は発する言葉とは程遠い美少年だった。

 さらさらとした金色の髪に薄茶色の瞳、しなやかでか細い腰周り、

 白く透き通るような肌はなめらかで絹の装束をまとい憂いを秘めた唇がほんのり赤い。

 とは言え千年ちかくも生きていればこの様な口調にも成り得るのかも知れない。

 そして何よりこの美しい青年に不似合いなものがそのほんのりと赤い唇に収まっていた。

 それは人間界で言うところの“おしゃぶり”なるものであったのだ。

 蔵馬にとっては自分がコエンマを知った時からこの奇妙な出で立ちと

 奇妙な言葉使いは変わる事がなかったのだからさして気にとめるふうでもなかった。

「まあ、座れ。」

 コエンマは広く大きなソファに蔵馬を座るように命じた。

「で? 今日はいったいどんな難題なんですか?」

 蔵馬はソファに腰を下ろしながら覚悟を決めて口火を切った。

 するとコエンマは腰をおろした蔵馬の傍に立ち蔵馬の形のよい顎を手のひらで持ち上げた。

「蔵馬、お前の決心はついたのだろうな。時間は待っていやしないぞ。」

 蔵馬はコエンマの一言ですべてを把握した。

「その事ですか?」

 いささかがっかりした気持ちになった蔵馬にちょっと悪戯心が芽生えだした。

 自分の顎をつかむコエンマの手を離してその手に自分の指をからめてから自分の胸元へと導いた。

 コエンマはその手を離そうとじたばたしながらも話を続ける。

「お前は延ばせるだけ延ばしてこのままで居たいとそう願っているのだろうがいいか、

 蔵馬、そうはいかんのじゃぞ時間がないのじゃ。」

 蔵馬は必死に引っ張るコエンマの指を離そうとせず、今度はやわらかい長い舌で指先をなめ始めた。

 その舌の動きがコエンマの身体に電流を走らせる。

「く、くらま、や、やめんか、わしが話しておるのじゃぞ、まじめに聞かんか!」

 蔵馬は濡れた様な瞳でコエンマを見上げた。

「や、やめろと言っておるじゃろうが、まったく、この狐め、悪さばかりしよる。」

 コエンマはそう言ったものの蔵馬の妖艶な美しさにはいつも飲まれそうになるのだ。

「お前の気持ちは解らんでもない。しかしそれがお前の為だ。」

 コエンマは蔵馬の悪戯を阻止するかの様に言った。

「そうですね、あなたの言っている事はいつも正しい。

 たぶんそれしか方法はないのかもしれない。けれど、それをオレは望んではいない。」

 悪戯をあきらめた蔵馬はコエンマの指を開放して肩をおとした。

「・・・お前は、わしがそうする事でわしを恨むのだろうな。」

 コエンマはふとため息をつきながら視線をおとした蔵馬を見て言った。

「いえ、あなたがそうしたらオレは恨む事すら忘れてしまうのでしょ?」

 蔵馬はコエンマの言わんとする事に正直に答えたつもりだったが、やはり少し棘があったかもしれない、とふと思った。

 そしてそう言った蔵馬の瞳にはさっきまでの悪戯な輝きは消えていた。

 コエンマはおしゃぶりをはずし蔵馬のその瞳に吸い寄せられる様に蔵馬のしっとりした唇に自分の唇を重ねた。

 蔵馬はそのままコエンマの腕に自分の手をそっと重ねてコエンマの暖かい口付けを受け止めていた。

 柔らかで赤みを帯びたコエンマの唇は少し熱く薄く、開いた唇の間から待ち受けるかのように滑らかな舌の動きが伝わってきた。

 しばらくの口付けの後コエンマは言った。

「お前のその瞳はわしの心を何度も誑かす、だが、そうやってお前はわしに服従した様に装い、心の奥底では違う愛を求めている。

 それはわしにとってはかなり辛いことだな・・・」

 コエンマは蔵馬をこのまま引き寄せたいという衝動を振り払い、笑いながら言った。

 そしてコエンマは蔵馬の髪に指をからめ、その柔らかな髪を梳きながら

 あきらめた様に大きなため息をひとつつき心を固めて言葉を繋いだ。

「まあ、よい。それはそれじゃ。しかし今、お前がすべき事は解っておるな?

 自分の為じゃ、わしに全てを預けてはくれまいか。」

 その言葉に少しだけ好戦的な瞳の色になった蔵馬の顔を見てコエンマは踵を返した。

 そして大きなガラス張りの窓際へ歩を進めた。

 ガラスの向こうは真っ暗な闇が広がっていた。

 部屋のライトに照らされたコエンマの姿がはっきりと映って見えた。

「ええ、承知しています。オレが十六歳になり”魔“として生きていくだけの肉体を得た事。

 そして十八歳になれば妖狐としての力をも受け止めるだけの器が出来る事。

 でもそれは同時に南野秀一としての肉体を滅ぼす事になるという事。

 南野秀一の肉体は肉体としての成長を止め”魔“としての核で肉体を維持していく事になる。

 その時が間近に迫っているのですから、あなたにとっては気が気じゃない。

 肉体の成長を止めたオレは人間界では生きていく事はできない・・・

 でもオレは、その日までその瞬間までこのままでいたいんですよ。

 何も覚悟を決めるとか、思い出を作るとか準備をするとか、そんな必要何処にもないんです。

 ただその日まで何も変わらない日々、平和な日常を過ごしていたいだけなんです。

 この先オレには途轍もない長い時間が待っているのですからオレにとってこの短くても平和な時間だけが

 これから先、生きていくうえでの一番の糧になるんですよ。」

 蔵馬はソファからたちあがりコエンマの後ろ姿に言った。

 コエンマは黙って聞いていたが、しばらくの沈黙の後、口を開いた。

「わしはそれが心配なんじゃ、お前は人間の心を持ちすぎてしまった。

 あれだけの非道だったお前がたった十六年でここまで人としての心を持ってしまった事こそがわしの胸を痛めるのじゃ。

 お前のその人としての優しさは命取りになる。

 ”魔“であるお前が一番解り切っている事ではないか。

 ”魔“である限り相手との係わりやいたわり、情け、そう言った物は必要のないものじゃ。

 ”魔“は欲のみで生きておる。欲の為に戦い、欲の為なら生死をもいとわない。

 かつてのお前がそうであった様にな。」

 コエンマのその言葉に蔵馬は妖狐であった自分を思い出していた。

 極悪非道の盗賊妖怪、伝説の妖狐蔵馬、それが自分だ。

 欲しいものはどんな手段を使おうとも何でも手に入れ、必要のないものはすべて排除した。

 徒党を組む事もない。毎日が欲望と戦いの世界だ。

 そこには勿論情けや愛なんてものはない。したい事をする。

 それが”魔“と呼ばれるものであり、それがかつての自分だ。

「まだ、魔界も人間界も妖怪共が行き来しておっていた頃、お前はあどけないが賢い九尾の狐だった。

 愛らしいお前の姿がまだ、目に焼きついておるわい。

 魔界でボロボロになっていたお前を育てた。

 狐のままだと思っていたがお前は暫くの間変化出来る事を隠しておったな。

 わしにまとわりついてぴょんぴょん跳ね回っておった。

 安心できたのか、いつの間にか人の容をとるようになった。

 それが成長するたびに美しくなりおって、小さかったお前もすぐにわしを追い抜き、

 それでもあどけない少年で新しいものを見つけてはわしのもとに運んできた。

 何度訳のわからぬ妖怪の遺体をみせられた事やら。

 お前は一度した失敗は二度とせなんだ。失敗をも次には自分の力に変えておった。

 だが、お前は賢過ぎた。賢過ぎたお前は普通の欲ではすまなかったのだろう。

 あまりの賢さに”魔“と成りえたのだろう。

 日に日に大きくなっていくお前の妖気をわしは止める事が出来んかった。

 あの頃のお前はまさに”魔“であり霊界で言うところのS級クラスとなるにもさして時間は要し得なかった。

 それでもお前は不意にわしの元へ現れては気ままにふるまって去っていく。

 そんなお前をわしはただ、見ているしかなかった。

 だが、それでもお前から目が離せん自分がおったのじゃ。」

 コエンマは遠い昔の記憶をたどっていた。

 そしてガラス越しに映る蔵馬の影にそう言った。

 そのコエンマの寂しげな姿に蔵馬は傍に歩みよられずにはいられなかった。

 蔵馬はコエンマより頭ひとつ背丈がある。

 美しい容姿の中にたくましい筋肉を蓄えている。

「あなたの心配にはおよびませんよ。知っていますか? ”欲“というものの中には”愛“だって存在してるって事。

 だからオレの記憶を消す必要なんかないんです。」

 蔵馬はコエンマの限りない尊い愛を感じていた。

「現に、あなたはあの頃の非常なオレをも愛してくださっていたじゃないですか、

 オレだってずっとあなたを愛し続けてきた。」

 蔵馬はコエンマの背後に立ちガラス越しに立ったままコエンマを見つめた。

「蔵馬、それはちと違うの。わしは確かにお前を愛しておる。これからもずっと変わらずにな。

 だが、お前の言うわしへの愛はちと違う。お前とわしの愛の形にずれがある以上お前とは愛しあえない。

 身体だけの愛ならそれは”魔“の欲望でしかないのだからな。」

 コエンマは蔵馬のガラス越しの瞳を見つめながら言った。

「オレは昔からあなたには逆らえなかった。オレがどんなに極悪非道になろうとも

 あなたの傍らでの安らぎをいつでも求めていたから。

 あなたといる事であなたに逆う事なくあなたの温もりを求めていたのでしょう。

 もっともその頃のオレにはそんな解釈は出来ていなかったけれど、

 でもそれはあなたに対する愛だとオレは思ってます。」

 蔵馬はコエンマを後ろから抱きしめた。

「くらま・・・」

 コエンマは強く抱きしめた蔵馬のたくましい腕に手をかけ蔵馬の胸の音をここちよく聞いていた。

「もう少ししたら、オレは母さんや同級生達、オレに係わった全ての人達の記憶を消す。

 その為、あなたが用意してくれたオレと同じ名をもつ再婚相手の子供に母さんはオレとの幼い頃の記憶を塗り替える。

 そして母さんは傷つく事なく幸せに余生を生きるんだ。

 それはオレが一番に望んだ事、あなたはそこまで考えていてくれていた。

 本当に感謝してるんだ。」

 蔵馬はコエンマを抱いたままコエンマの流れる様な金色の髪に自分のほおをすべらせ目を閉じた。

「昔からそうだった。あなたははるか彼方からオレの行く末を案じ、

 オレにとって一番よかろうと思う全ての路を選んでくれていたんだ。

 オレが一人で力をつけてきた訳じゃない事くらい知っていましたよ。

 あなたは時には優しく、時には冷酷にオレを”魔“として生きていかれる様育ててきたんだ。」

 蔵馬の声はコエンマの心の奥底まで響いていた。

「蔵馬、お前との記憶は母からは消える、なのにお前の中では母への記憶は残ったままになるんだぞ。辛い事だ。

 お前がこの先長い時を生きていくうえでその記憶はお前を引き裂くほどの悲しみをも生むやもしれんのだぞ。

 そんなお前をわしはみたくないのじゃ、わしはその為にお前の人間界での記憶を消してしまいたいのだ。」


 家族という温もりを知ってしまった蔵馬に、この先大きな哀しみを持ち続けていくという現実をコエンマは背負わせたくなかったのだ。

「大丈夫です。オレはその悲しみの記憶をも愛していける。それにあなたがオレの傍にいてくれるじゃないですか。」

 蔵馬はずっと抱きしめていたコエンマの耳元で言った。

 その吐息にコエンマは蔵馬の腕をいっそう強くにぎりしめていた。

 このまま蔵馬を自分の物にしてしまいたい衝動にかられていた。

 しかし強い意志でその考えを振り払った。

―本当にお前が傍にいて欲しいのは・・・

 コエンマは心の奥で呟いた。

 そしてやさしく蔵馬の腕を解き、振り返り言った。

「お前のそういう所は”魔“としての性質じゃな、わしはいつでもお前を抱きたいと思っておる。

 だけど出来んな。わしはわしだけを愛するものでなければ抱けんのじゃ。」

「オレは、あなたを愛している。」

 コエンマは不思議な顔で自分を見つめる蔵馬に笑いながら言った。

「蔵馬よ。わしは、わしだけを愛してくれるお前でなくては抱けない。

 お前が今、抱いているお前の気持ちを、お前の愛というならそれもよかろう。

 とて、それがお前の本当に求めている愛ではない事をお前も知る時がくるであろう。」

―人間の心を持ったお前ならその本当の意味を知る日が必ず来る。

 こころの中でコエンマは呟いた。

 
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