ショート・ショート

□lasting
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「そうだ、1つ聞いて欲しい頼みがあるんだけど、いいか」
ガンに侵される前にも後にも、「彼」はごくたまにこうやって私に頼み事をした。だが、その内容はだいたい、
「缶コーヒー買ってきてくれないか?無糖か微糖な」
といったものだった。

そんな簡単なことを頼むのにどうしてそんな堅い言い方をするのか、一度聞いて見たことがある。
「俺、昔から親に迷惑かけるな、って言われてて、だから、人に頼み事をするときはつい、堅い口調になるんだ。」
だから彼はあまり頼み事をしなかったのだろうし、入院中ほとんど頼み事をしなかったのも同じ理由だろう。



そんな彼が一度、どうしても、という頼み事をしたことがあった。
「俺の部屋にある研究用のノートパソコン……と言ってわかるよな?あれを取ってきてくれないか?」
彼曰く、使用目的は、
「書きかけの論文を仕上げたい」
ということらしい。
断る理由はない。私は勿論快諾した。

それから彼は論文を書き始めた。
まるでピアノでも弾いているようにリズミカルにタイピングしているその姿は、ほんの少し前----彼が床に伏す前----と全く変わらなかった。
もっとも、彼は音感がまるでなかったから、楽器には疎かったが。

だが、そんな彼に、私は一抹の不信感を抱いていた。


今までの彼は、論文を書くことに余り執着しなかった。大学の卒業論文ですらギリギリまで書こうとしなかったぐらいだから。
その彼が、どうして、命の残り少ない今、論文を書いているのだろうか。

そんな私の気持ちなど知ったものか、と、彼は3日でそれを仕上げ、メールで学会に提出したらしい。
「いや、どんなに些細なことでもやり残しておくと向こうで後悔しそうだからな。仕上がって良かった。」
私が論文を書いた理由を聞くと、彼はそう言った。


そういうものかな、と私は一応納得しておいた。

彼のように、自分の死を実感している人から見れば、どんなに些細で雑多なことでもやり残すのが心惜しいのかも知れない。

それに、彼は今、この瞬間にも死ぬかも知れないが、私はそうではない。彼と私には、天才数学者と一般人以上の、分厚く、越えられない壁があった。
そんな私に死に際の彼の気持ちなど分かるだろうか。
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