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「あれ?」
ふと違和感があって周りを見回した。
手にあるタオルは湿っていて、身体はぽかぽか。肌からは湯気が僅かに昇っている。
目の前には姿見があった。いつもの寝巻きを着て、顔は風呂上りで火照っていて、髪は水気を含んで重たく下を向いている。
前髪を一房摘んで上目で見上げると、しんなりとした茶色の髪がちゃんとある。乾けばくすんで、ぱさぱさしてしまう髪だ。何も変なところはない。
「ねぇ」
後ろから。
声をかけられて腕が回される。
姿見にはいつの間にか――ちゃんと、ヒバリさんが写っていた。吸血鬼なのに鏡に写ってる。伝承なんて信用ならないのはヒバリさんと暮らしてから、暮らす前から何度も実感したことだ。
「いつまでそうしてるの。寝癖が気になるならちゃんと乾かせばいいのに」
「ちゃんと乾かしてるつもりです。あと寝癖、気にしてないですよ」
「朝、顔洗う時いつも鏡見てため息ついてるのは、違うんだ?」
「そういうことは見てみぬフリをするものだと思うんですけど」
むっとした顔で振り返る。ヒバリさんは機嫌良さそうに笑っていた。笑って、手を伸ばして――病的なぐらい真っ白な指が髪の間に入り込む。
するりと髪を軽く梳いて、それから頬を擦り付けられた。
「……いい、匂いがする」
「そうですか? いつもと同じだと思うんですけど」
特別、何か変わったことはしてない。ヒバリさんの部屋で、浴室で、第一、今日は、――今日は?
「同じお風呂場で一緒に入ったんですから、ヒバリさんも同じ匂いしてますよ」
くん、と鼻を擦り付けて嗅ぐ仕草をすると、可笑しそうに笑われた。なんだか、上機嫌そうだ。
上機嫌のまま、ヒバリさんが顔を寄せてくる。なんの前置きもなく、音を立てて唇に吸い付かれた。
「ん、」
火照った手が寝巻きを捲って入り込んでくる。ひやりとする空気、だけど手が暖かくて温度差に背筋が震えた。思わず引ける腰を、後ろに回った片方の手に掴まれる。退路なんかないのは最初からだ。少し下がれば姿見が壁になっていた。
ヒバリさんの指が肌を上っていって、口が下がっていく。肩を舐められてお腹の中が絞められるような感覚を覚えた。寝巻き、捲れたり下がったりでほとんど着れてない。
「――――っ、」
そりゃあ、お風呂から上がったらこういうことをするのだって分かってたけど。
もうちょっとぐらいゴロゴロしてもいいんじゃないだろうか。ゴロゴロ、ベッドの上で。本の話を。面白い本とかあったら、教えて欲しかったから。
どうやって一時中断しよう。ヒバリさん、と呼びかけたのと同時に、腰に回っていた手がズボンに入って来た。
「ひゃ、――わ、いきなり、」
下着を潜って、手の平が前に回ってくる。
当然のように勃ってない。だから、もうちょっとゆっくりめに事を進めていきたいっていうのに。
「ヒバリさん、もうちょっと――」
ゆっくりとか。雰囲気を考えて欲しいとか。さっきから何も喋ってくれてないとか。言おうとしたことが全部喉元で潰れた。
「ぃ、いたっ、そんな力一杯にぎって、……ぃっ、」
強く握ったまま前後に擦られて、痛い。撫でるというより、表面を削られてるみたいだった。
「痛いのは、嫌?」
「っ、――――ぇ?」
「すぐ、よくなるから。敏感に、しておかないとね?」
甘い、飴のような声で囁かれて、勝手に口が噤まれた。頭がくらくらした。耳から直接、蜜を流し込まれたみたいだった。
そう、思ったからだろうか。聞こえてきた水音に目線が上がる。水は、ヒバリさんが。
自分の手の平を自分の舌で濡らしていた。何をしているのだろうと思う間もなく、濡れた手が腫れかけた箇所を包んでくる。
「ぁ、」
腫れた表面が濡れる。すこし粘ついた唾液の、とろりとした感触。
間に唾液を挟んだまま、手の平がまだ前後に動き出した。
「あっ、ぁ――――」
たまらずに上体を反らすと、こつん、と何かに頭が当たった。鏡が、
「んぁ、……ん、」
冷たい鏡面に頭をすりつける。薄目を開けて見れば、ヒバリさんと目が合った。
黒い眼。黒い髪。白過ぎる肌。風呂上りだから、毛先がしなっている。艶めいた笑い顔をしている。何も、おかしくは、
「っ、ヒバリ、さん……っ」
「なに?」
こんなことをしているのに、声は平静だった。でもどこか、甘ったるい。声だけで、撫でられているような気分になる。
何かが嫌だった。何が。何も、拒む理由は――そう、だ
「立った、まま……は、」
「いや?」
「や、です、」
途切れ途切れに答える。――と、聞こえているのかいないのか、くすくすと笑われる。そのひっそりした笑い声が、頭の中で反響した。くすくすくすくす、それしか、聞こえなくなる。
「ヒバリさん、」
呼びかけて目を開けば、ちゃんとそこにいる。笑い声なんて上げてないのに、聞こえてくる。どこから。頭の、中から。
ぬちゃっ、と笑い声より現実的な水音に我に返った。
「ぁ、」
「いきそう?」
頭を振った。
握った手に更に力がかかる。先端を親指が撫でて、抉ってを繰り返して、たまらなくなって眼に涙が浮いた。鏡があるのも構わず頭を強く後ろに押し付ける。手はそんなのもおかまいなしに動いて、追い詰めてくる。
「気持ちいい?」
「っ、ん、や――だっ!」
ありったけの力を込めて、ヒバリさんを突き飛ばした。
「ぇ? あ、オレ、なんで、……ごめんなさい、オレ、」
「どうしたの」
怪訝そうな顔をして、オレを見るヒバリさん。訳も分からず頭を横に振った。どういう意味かも自分では分からない。ただ頭を振った。
「どうしたの、ツナヨシ?」
「――――――」
手が、伸びてくる。鏡面に両手をついて、囲われる。見下ろしてくるヒバリさんは怪訝そうな、なのにどこか可笑しそうに笑っていた。
くすくす、くすくす、声がする。
頭の中をかき乱す笑い声。遠くから響いてくるような、近くで囁いているような。
「どこ、見てるの?」
「え?」
笑い声を追いかけるように目線を彷徨わせていると、手で顔を掴まれた。ずい、と寄せてくるヒバリさんの顔は少し不機嫌そうだった。
「こんな時に、余所見?」
「あ……、」
そうだ。こんな時なのに、オレはさっきから何に気をとられているんだろう。
「ごめんなさい」
正直に謝ると、ヒバリさんの視線が和らぐ。髪を梳いてくれる指が心地いい。暖かい。
ヒバリさんが楽しそうなのは、オレも嬉しい。だけど、やっぱり、
「声が、」
「なに?」
「笑い声、聞こえませんか? さっきから大きくなってる」
「気のせいだよ」
オレを見たまま、音を探りもせずに言う。
笑ったまま。作った表情で言う。
「ヒバリさん」
「そんなこと言って、逃げるつもり?」
からかいを含んだ軽い脅し。いつもなら笑って返せる。だけど、
「声、聞こえなくなりました」
「そう。ならやっぱり、気のせいでしょ」
ヒバリさんが笑って、手を伸ばしてくる。優しい手つきで額にかかる前髪を撫でた。
その手を避けた。ぱしん、と手で払った。勝手に、身体が動いた。
「ヒバリさんが気のせいだって言ったら、聞こえなくなりました」
「――――――」
上機嫌だった表情が凍った。