短編集U
□ホストクラブ「WB」A
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「ここだ。」
大きなグレーのドアを見上げて、私は喉をコクリと鳴らした。
カランと重厚に響く鐘の音と共に、黒服を着た従業員が一人、店内から出てきた。
「いらっしゃいませ。」
立ち止まり、一礼をして低く落ち着いた声で迎えてくれたその人は、私に向き直り恐れていた一言を告げた。
「本日のご指名は?」
「あっ・・・あの、えっと・・・。」
途端にしどろもどろになる私を不思議そうに見つめたあと、何かを思いついたように手を打った彼。
「初めてのご来店ですか?それなら適当に「いえ、違うんです!」・・・はい?」
勢い余って少し大きな声を出してしまった私に、周りの黒服さんたちも視線を寄越す。
「あ、あの・・・名前がわからなくて・・・。」
「あぁ!そうでしたか。それでは、どういう特徴ですか?」
合点がいったとばかりに微笑んだ黒服さんが、少し身を屈めて私に問う。
「え・・・っと。あの、背が高くて・・・えっと。」
「背・・ですか、エースでしょうか?」
黒服さんの出した聞き覚えのある名前に慌てて手を横に振る私。
「エース君じゃないんです。あの、髪型が・・・パイナップルみたいで「誰がパイナップルだよい?」・・へっ?」
焦って説明していた私の背後から、聞いたことのない低い甘い声が降ってきた。
「あぁ!マルコさん、おかえりなさい。マルコさんのお客様でしたか!」
「・・・あぁ、そうみたいだねい。」
はるか上から見下ろすように視線を落としてニヤリと笑った彼「マルコさん」は、まさしく私が指名しようとしていた「彼」だった。
「あの、初めまして。名無しさんです。」
案内された奥の席、そこに座ったはいいものの名前も知らないのに指名するだなんて、やっぱり可笑しな行動だったと今更ながらに恥ずかしくなってきた私は、とりあえず自己紹介でもと思いなおし、なぜか立ち上がって名乗った。
「ぷっ!オレァ、マルコだよい。」
勢いよく立ち上がった私に一瞬目を丸くしたマルコさんが、こらえ切れないとでも言う様に吹きだしながら言った。
「今度からは、パイナップルで指名すんなよい。」
「は、はいっ!すみません。」
「・・・別に怒っちゃいねェよい。」
ソファへと腰掛けて、軽く前屈みになった肘を自身の膝へとつき、口元へやった大きな手で顎鬚を撫でるようにしてこちらを見つめるマルコさん。
私は、足先から滑るように辿るその視線に身を固くした。
「・・・・なんか飲むかよい?」
「あ、はい。」
手を挙げて黒服さんを呼びつけたマルコさんが、なにやら注文をする。
それをぼーっと見つめていた私に気づき、また先ほど見せたように片口角を上げたマルコさんが頬を吊り上げた。
「そんなに見られちゃ、照れちまうねい。」
「・・・・だって、カッコいい。」
「っっ!・・・ハハっ、若いってのはいいねい。」
クスクスと笑うマルコさんに、子ども扱いされた私はショックなんだけれども不思議と落ち着くその雰囲気にすっかり魅了されていた。
やがて現れた黒服さんが持ってきたシルバーのお盆を受け取り、この間サッチさんがしてくれたようにシェイカーを振るマルコさん。
「あの、どうしてカクテルなんですか?」
「あぁ?・・・おめェ、前来た時もそうだっただろい。」
「え?・・・知ってらしたんですか?」
最後の私の問いには答えず、綺麗なピンク色のカクテルを私に差し出したマルコさんは、シャツの胸ポケットへと手を伸ばし、何かを思い出したように一瞬静止した後、ソファへと緩く凭れてその長い腕を背凭れへと乗せた。
「マルコさん、飲み物は?」
「・・・・・・・・・・。」
「?」
遠慮がちに声を出した私をチロリと見やり、次いで伏し目がちに考え込むマルコさん。
その長い腕が背凭れから剥がれ、彼のズボンの後ろポケットへと伸びた。
「オレぁ、これだよい。」
ふんわりと沈むソファと彼の黒いズボンの間、そこから現れた大きな手には、ブラックの缶コーヒーが握られていた。
「え?コーヒーですか?」
「あぁ、休憩だったからな。ちょうどさっき買いに出てたんだよい。」
「え?でも・・・・・・。」
それじゃあ、売り上げにならないんじゃ・・・?という私の問いは、缶コーヒーを開けながらこちらを見やるマルコさんの鋭い視線に飲み込まれた。
「今はこれが飲みてェんだよい。」
結局その日、マルコさんがお酒を口にすることは一度もなかった。
会社の話、同僚のこと、そんなつまらない私の日常の話に耳を傾け、たまに共通の話題でもあるエース君やサッチさんのおバカな話をしてくれたマルコさんは、帰りに私を店の外まで見送ってくれた。
「マルコさん、あのっ!」
「また来いよい。次はもう名前、言えんだろい?」
「・・・・・はい。意地悪ですね。」
ここ数時間ですっかり打ち解け、感情を露わにすることで出来るようになった私の膨れた頬をその長い指で突っつきながら、クツクツと喉を鳴らして笑うマルコさん。
「どっちが。 気ぃつけて帰れよい。」
「はい!ありがとうございました!」
勢いよくお辞儀をした私。
堪えきれない笑いをそのまま出したマルコさんは、ポンポンと私の頭頂にやさしく手を下ろした。
「それは、こっちのセリフだよい。」
ますます笑みを濃くしたマルコさんと別れ、帰路へと向かった私の後姿を、彼がずっと見送ってくれていたことなど、その時の私はまだ知らなかった。