短編2

□その感情の名前を
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ぶくぶくと、まるで海の底にでも引きずり込まれるような感覚に僕は目を閉じた。

(このままじゃ、いけない)

そう思うのに−−。

浮かび上がらなければと焦る気持ちとは裏腹に、手も足も、鉛のように重い。

(ああ、もういいんだろうか…)

このまま流れに身を任せればきっと僕は、楽になれる。

そう思った時だった。

沈みゆく僕の耳に水面近く、はるか上方から声が聞こえてきた。

『バニー…』

(あの声は…)

『‥バニー!』

(オジサンだ‥)

見上げた僕の目に映ったのはキラキラと綺麗な温かい光、そして…。

こちらへと差し出された手を掴んだ瞬間、僕は現実世界に引き戻された。


「あ、オジ‥サン」
「よかった!お前、いくら呼んでも目ェ覚まさないし、心配したんだぞ!」

いつもの癖でベッドサイドの時計に目をやると、とうに出社時刻を過ぎていた。
どうやらお節介なオジサンはいくら待っても出社して来ない相棒を心配して、訪ねてきたらしい。
というか、合い鍵で勝手に家に入るなんて不法侵入じゃないか。

「‥心配かけてすいませんでした」
「お前、ほんとに大丈夫か?」

心底心配そうな声音で見つめる彼は正直言って鬱陶しい 。

‥だけのはずなのに。

心のどこかで安堵している自分がいる。

「夕べ、眠れなくて薬を飲んだんです。それが効き過ぎたんだと思います」
「‥そっか、」
「いつもはきちんと目覚めるんですが」
「別に体調が悪いわけじゃないんだな」
「ええ…」

まだ少し気怠さは残っていたが、こんなのいつものことだ。
ホッとしたように眦を下げて、オジサンが僕を見る。

「本当に迷惑かけてすいませ‥」
「そんな言い方はやめろよ」

謝罪の言葉は途中で遮られた。

「迷惑なんて思ってないし、俺達コンビだろ」

またいつものお説教だと思うのに。
なんで僕は、こんなにも安心しているんだろう。

「今、コーヒーでも入れてきてやるよ」

自分でさえ、時々持て余す苛立ちのような感情。
ほっといてくれと思う反面、オジサンはきっと見捨てないと心のどこかで期待しているのは甘えなんだろうか。

「…安心しろ。俺はお前と一緒に沈んでやることはできないけど‥」

湯気の上るマグカップを持って現れたオジサンはほい、とそれを僕へと差し出した。

「いつだって、何度だって、お前の手を引っ張って引き上げてやるから」

まるで夢の内容を覗き見たかのような言葉に驚きながら、ヘラリと笑うオジサンから受け取ったカップの中身はコーヒーではなかった。

「そっちのが落ち着くかと思ってな」
「…ありがとう、ございます」

ぎこちない礼を言うと、僕は薄く膜の張ったホットミルクに口を付けた。

今の僕は心が弱くなっているんだと、そう自分に言い聞かせる。
でなければ、彼の優しさがこんなにも心地いいはずがない。

オジサンの温かな手がゆっくりと僕の髪に触れる。

「なんだよ、今日はえらく素直なんだな」
「…それ、嫌味ですか?」
「違うって」

いつものようにオジサンは笑うけれど。
僕はいつものように振る舞えない。

(こんなの、僕らしくないと思うのに)


ゆらゆらと、僕の心の水面を揺らす彼への思いを…。
まだ、形にもなっていないその感情の名前を…。


−僕はまだ、知らない。










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