PARIS ほか
□黒い瞳
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「車で待つ」と彼は言ったが、まさか車の外で待っているとは思わなかった。
極寒の雪原で、そういう愚かしいことはしない男だと。
佇む彼の横顔は険しく、雪原を睨むようだったが、脳裏に何を思っているのか私には分からなかった。
「もういいのか」
気づいて振り返った彼には、私に向かってニューヨークに高飛びするのだと叫んだ先ほどの激しさはない。
…私には分からなかった。彼のことは何も。分からないことに今のいま、気づいた。
「ああ」
「では行こう」
「すまない」
私は何を。
何故、今なのか。
何故、この別れのときになって。
「…謝ることはない」
彼のぶっきらぼうな呟きに、所在なげな横顔に、たちのぼる気配を私は感じた。
気配。
一体何の気配だというのか。
私は振り払う意識もなく軽く頭を振った。
駅へ向かう道中、彼と私は口数少なく、温かい、楽しい思い出をたぐりよせようと努めながら、昔の話をしたりした。
「…君はいつも私を尊重してくれたな、フェリックス」
ふと落ちた沈黙に、踏むのを怖れながら私は改まった言葉を彼に。
「おいおい…別れの言葉なら聞かないぞ」
「感謝している」
「いつかまた必ず会えるさ、君と私とは。私はそう信じている」
死地に赴く私を、そう言って励まそうと?
私は死ぬのは怖くない。
愛する人たちに再び会えなくなることが怖い。
そして今、私は私のイレーネに今生の別れを告げてきたところだ。
彼にも私は別れを告げようとして…ぶつかったのは、漆黒の瞳だ。
驚いたことに。
私たちのロシアだ。
その黒い瞳が映すものは。
美を愛し芸術をいとおしみ、豪奢な夜会の煌めきの映える彼の瞳。
その黒い瞳に、今、不思議に有るのは、白樺の林や吹雪の大地、雪解けの水、草原を渡る風…
懐かしき我らのロシアなのだ。
「ドミトリー…」
深い囁きに私は夢を見ているのではと訝った。
唇に感じた彼の口づけは、これまでの口づけとはまるで違う。
別れの口づけなのか、これは。
それとも…
「生きろよ。そして、また、会おう」
必ず。
ああ、フェリックス、必ず。
………
戦場で私はイレナの死を知った。
私は嘆いた。
命などもう惜しくはなかった。
だが、彼との約束が私を繋ぎ止めた。
また会おう。必ず。
ドミトリー…
私はニューヨークに渡った。
end
→雑感
2017.09.23