PARIS ほか

□黒い瞳
1ページ/1ページ



「車で待つ」と彼は言ったが、まさか車の外で待っているとは思わなかった。

極寒の雪原で、そういう愚かしいことはしない男だと。

佇む彼の横顔は険しく、雪原を睨むようだったが、脳裏に何を思っているのか私には分からなかった。

「もういいのか」

気づいて振り返った彼には、私に向かってニューヨークに高飛びするのだと叫んだ先ほどの激しさはない。

…私には分からなかった。彼のことは何も。分からないことに今のいま、気づいた。

「ああ」
「では行こう」
「すまない」

私は何を。
何故、今なのか。
何故、この別れのときになって。

「…謝ることはない」

彼のぶっきらぼうな呟きに、所在なげな横顔に、たちのぼる気配を私は感じた。

気配。
一体何の気配だというのか。

私は振り払う意識もなく軽く頭を振った。



駅へ向かう道中、彼と私は口数少なく、温かい、楽しい思い出をたぐりよせようと努めながら、昔の話をしたりした。

「…君はいつも私を尊重してくれたな、フェリックス」

ふと落ちた沈黙に、踏むのを怖れながら私は改まった言葉を彼に。

「おいおい…別れの言葉なら聞かないぞ」
「感謝している」
「いつかまた必ず会えるさ、君と私とは。私はそう信じている」

死地に赴く私を、そう言って励まそうと?
私は死ぬのは怖くない。
愛する人たちに再び会えなくなることが怖い。

そして今、私は私のイレーネに今生の別れを告げてきたところだ。
彼にも私は別れを告げようとして…ぶつかったのは、漆黒の瞳だ。

驚いたことに。

私たちのロシアだ。
その黒い瞳が映すものは。

美を愛し芸術をいとおしみ、豪奢な夜会の煌めきの映える彼の瞳。

その黒い瞳に、今、不思議に有るのは、白樺の林や吹雪の大地、雪解けの水、草原を渡る風…
懐かしき我らのロシアなのだ。

「ドミトリー…」

深い囁きに私は夢を見ているのではと訝った。
唇に感じた彼の口づけは、これまでの口づけとはまるで違う。

別れの口づけなのか、これは。
それとも…

「生きろよ。そして、また、会おう」

必ず。

ああ、フェリックス、必ず。



………
戦場で私はイレナの死を知った。
私は嘆いた。
命などもう惜しくはなかった。
だが、彼との約束が私を繋ぎ止めた。

また会おう。必ず。

ドミトリー…



私はニューヨークに渡った。



end


 →雑感

2017.09.23
次の章へ
前の章へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ