PARIS ほか
□PARIS
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遠い異国の地。
最果ての街。
タンゴの暗い情熱に浸され、追い込まれ、挙げ句、終焉を言祝ぐ…そんな場所だ。
ここを選んだわけではない。
流れ流れて辿り着いたわけでもない。
ただ偶然に、一陣の風に吹き寄せられた、それだけ。
…あの母親…厄介だったな…
今日診た患者、コンクール会場で倒れたタンゴ・ダンサーの若者の、母親。
母親というものはいつも苦手だ。
時に崇高な、時に愚かな、その愛情深さ、或いは、非情さ。
…あの人の母親はどんな人だったのだろう…
あの人は、手術の費用が払えず死なせてしまったと言っていたが…
もう二度とは会うことの叶わない、今は遠い人。
いや、寧ろ、今では私の心に最も近く在る人か。
忘れることなどできはしない…
クロード…
彼に初めて会ったのは、マロニエの花咲くパリで。
彼は時期外れに助手を探していた。かねてより医学者としての彼の業績を知り尊敬もしていた私は、数少ないつてを頼り彼の助手になった。
面接で、彼は、私を頭の天辺から爪先まで鋭い目付きで値踏みし、よかろう、と言った。
「優秀とは聞いているが、私は自分の評価しか信じない。そのつもりで励んでくれたまえ」
「はい、勿論です。ありがとうございます」
私の評判を信用しないのなら、何故助手にしたのか、未だに私には分からない。
一度訊ねたことがあるが、彼は面倒臭そうに、さあな、と寝返り私に背を向けた。
実のところ、最初の一日で、彼には道義心が欠けていることがはっきり分かり、それは私には我慢ならないことだった。
「命には値段がつけられている。医療には金が掛かるんだ。私は損得勘定抜きの医者を信用しない。私のもとで働くのなら覚えておくがいい。世の中、金だ」
「はあ…そうですか」
彼は私の態度や表情に反抗心を認めたに違いないのに、何故私を首にしなかったのか。
幾度も幾度もそんなことがあったのに。
とはいえ、私のほうでも彼に反発しながらも彼のもとを去らなかった。
何故なら…ああ、今ならはっきり分かる…初めて会って、彼に幻滅しながら同時に私は、彼の瞳の奥に、傷つき孤独に蝕まれた繊細な心の焔が仄かに揺らめくのを垣間見たのだ。
そして、もうそのとき、彼を愛していたのだ。
2012.05.29