PARIS ほか

□I'm free
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チャックは、夜の蒸し暑さに苛立ちを募らせていた。
ボーモントは雨は多いが年中温暖な気候で過ごしやすい。だが、彼はうんざりしていた。ボーモントの何もかもに嫌気がさしているのだ。

凍死しそうな極寒の冬のニューヨークに憧れる。
都会の人間は情に薄いというが、ムーア牧師の自分に対する態度ほど冷たくはないだろうと思う。
昔はああじゃなかった。ボビーが生きていた頃は。ショウ・ムーア牧師は本当に公平な人だったのに。

チャックは鬱々とした気分を抱えたまま重い腰を上げた。
何もする気にならないが、じっとしているのも苦痛だった。
苛立ち。焦り。虚しさ。期待。不安。渇き。憤り。身体中を駆け巡る血流のどくどくいう音さえ聞こえそうだ。俺はどこへ行くのか。この飽きたらない情動を何にぶつければいい?
チャックがそんな物思いに囚われ無意識に足を向けていたのは、仲間たちの集うダンスホール──実際はガソリンスタンドの裏の空き地だが──でもなく、我が家と呼ぶにはあまりに空疎なキャンピングカーのねぐらでもなかった。

教会…?何故来てしまったのだろう。
チャックは思考の働かない脳裏にぼんやりと、この教会とこの街を統べる人の冷たい眼差しを思い浮かべていた。
苛立ち、胸塞ぎ、あてどなさに更に足を進め、辿り着いたのはアリエルの家だ。
アリエル…いや、ムーア牧師の家だ。そう感じるようになったのはいつからだろう?
昔はボビーの家だった。憧れのボビー。誰もが彼を好きだった。学業優秀なフットボールの花形選手。ハンサムで気さくで機知に富み、誰もが彼に憧れた。女の子たちはみな彼にデートに誘われたがり、男どもはみな道端で彼に出くわしたときには親しげに肩を叩かれファーストネームで呼ばれることを願った。

チャックはボビーを訪ねてたびたびこの家のチャイムを鳴らしたことを思い出していた。
ボビーが屈託のない笑顔で、入れよ、と言う。牧師が息子に向けるいたわりと愛に満ちた誇らしげな眼差し。そして、その余韻にきらめく瞳を自分にも向けてくれる。神の御加護を、チャック…

苛立ちはもはや消失し、深い悲しみがチャックの心に靄をかける。
足下の小石を拾い上げ、彼は考える。何故、小石を拾ったのかと。そうだ。窓にぶつけてアリエルを呼び出すのだ。
アリエル…?いや、今のいま、頭にあった面影はアリエルではなかった。
小石を握る手が震え、靄はいっそう濃くなってゆく。
牧師の取りつく島のない声。次からはちゃんとチャイムを鳴らせと。ああ、鳴らしてやろうじゃないか。お望みとあらば。

「チャック…一体何時だと…」
ショウ・ムーアはチャックのただならぬ様子に戒めの語気を弱めた。町一番の不良少年、ろくでなしのチャックが、なんと心細げな様子でこの扉口に立つものか。
牧師はチャックに対してもにわかに職業意識にめざめた。レンのおかげで己の間違いに気づいたばかりの幾分高ぶった心持ちも手伝って。

「ムーア牧師、俺は町を出ますよ」
「そうか…」
チャックは自分でも思いもかけないことを口にしていた。町を出るなど空想でしかなかったのに。しかし、牧師はただうなずくだけだ。
ああ、やはり、この人にとって俺は何でもないんだ。
「町を出る前に懺悔をしたいな」
「かまわないよ」
「今からでも?」
「まあ…明日のほうがありがたいが…」
「明日には俺はいない」
「…いいだろう」

教会へ歩みを運びながらチャックは靄が晴れていくのを感じた。
何故だろう…。ふと牧師の横顔を見遣る。ボビーに似た横顔。ボビーよりも完成度に勝る叡知をたたえた横顔。心奪われながら、チャックは悲しみを覚えた。この人の心に俺はいない。当たり前だが、いない。当たり前だが、それが辛い。

教会の礼拝堂で祭壇に向かい十字を切る牧師の痩せた背中を、悲しみのまま堪えきれずチャックは抱きしめた。

「どうした…チャック?」
「あんたは結局何も分かってないんだ…!」
涙声を恥じるが、止められない。涙も衝動も。
チャックはショウの肩を掴んで強引に振り向かせた。濃い色の瞳はボビーと同じだ。チャックはボビーに子供扱いされてからかわれたことをわずかな痛みとともに思い出す。
しかし、ショウは…ショウの瞳は彼を子供扱いなどしていない。ただ、今は驚きたじろいでいる。ショウの瞳の奥深く覗きこんだ結果は、わずかな痛みどころではなかった。

深淵だ…と、チャックは思った。生と死とを見つめつづけ、神に祈りを捧げつづけた魂の抱く底のない深い深い淵…
チャックはどうしても涙を抑えることが出来なかった。
「アリエルは俺のことなんか好きじゃないんだ。俺もアリエルなんかどうでもいいんだ…!」
ショウはチャックを理解しなかった。ただ、彼のことを理解しようと努めた。そうして、じっくりと彼の言葉を反芻し、心を映す瞳を見つめ、解き明かそうとした。

そのとき。
涙に濡れたチャックの瞳が不意に耀き渡り、ショウは唇にあり得ない口づけを感じた。
遠い青春の日々に、もしかしたらこんな口づけを受けたことがあったかもしれない…。
この男は、とショウは考える。娘のボーイフレンドではない。ボビーの年下の友人でもない。見知らぬ若い男。それが一番しっくりくる。そう考えさせるのは精神の安全弁か。

めまいを覚えながら、抗っているとは言いがたく口づけに応じながら、ショウは突然故知らぬ深い悲しみに襲われた。
この口づけを終らせなければと考える暇もないほど反射的に、彼はチャックの舌に噛みついた。
「っ…!ムーア牧師…」
チャックは痛みに顔をしかめ、舌先をなぞって血のついた指先を眺めた。
「…痛みか…ありがたいな…。生きてるってことを思い出したよ」
「チャック…」
「そんな顔しないでくれ、ショウ…」
ショウは、たった今感じた悲しみはチャックから来たのだと、チャックの孤独な魂の本質を垣間見たからだと、悟った。…私はどんな顔をしているのか。
「これが俺の懺悔だよ、ムーア牧師…さよなら…ムーア牧師…」
チャックの魂を救うべきどんな言葉もとっさに思いつかず、ショウはただチャックの背中を見送るしかなかった。…君の魂が救われんことを…とやっと呟いたがチャックに聞こえたかどうか。

チャックは晴々とした気持ちだった。
これでやっとボーモントを出ていける。やっと解放された。俺を繋ぎ止める何もない。生き返った気分だ。…
思えば、退学はしても礼拝に通ったのは、ショウ──チャックはムーア牧師を“ショウ”と呼ぶ資格を得たように感じていた──の姿を眺めていたい、ただそれだけの理由からだ。
チャックは思わず知らず口笛を吹いていた。俺は自由だ。
10年後…チャックは希望に満ちて、考える。10年後、ここに戻ってきたときには、俺はショウに釣り合うようになっているだろう。そうならなければ。彼の心を占めるような人間になるのだ。そのときこそ。そのときこそ…。

チャックは、胸踊らせ、足取り軽く、夜の通りを下りながら、ボーモントの町を懐かしく思い始めていた。
湿気を含んだ生暖かい風に、厳冬の都会を思い描きながら。


2012.09.05


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