PARIS ほか
□Cadena de Sangre
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その簡素で親密な雰囲気の漂う食卓で、陛下は昔話をした。ときに笑い、私を見つめ、若い頃のような耀く瞳で思いを語った…
私たちには分かっていた。
それは、もはや取り返すすべもない遠い過去の影。それは成し得ない望み。果たせぬ約束。実らぬ花。…
…夜半、寝台にただ横たわり、眠れずにいると、扉の軋む音がした。月明かりに青白く佇む姿は…
「…陛下…」
「すまぬ…言い忘れたことを思い出したのだ」
陛下の朗々たる声は、陛下もまた眠れずにいたことを示していた。
「陛下…それは…どのような…、いえ、まず身支度をさせてください…」
私は慌てていた。寝室に訪ねてくるなど、まるで夜這いではないか。しかし、陛下がまさかそのような、いや、おそらくとても大事な話なのだろう。
「そうだ、傷はどうだ?先頃のネーデルラントでの…」
「もう何ともありません」
身支度を整えようと慌ただしく動きかけていた私の傍らにいつの間に陛下が立っていて…その手がひんやりと私の裸の背中に触れた。
「この傷か…」
「陛下…」
「召し替える必要はない。話はすぐ終わる」
灯りはなかった。
おそらくは私の背中の傷も陛下の青白い美しい横顔も月明かりに仄かに浮かぶだけ。
私は身動きもできずにいた。膝まづきたかったが、背中に触れている陛下の手を避けるようなことはできない。同じ理由で夜着を再びまとうこともできかねた。
私がそうして進退極まり陛下の間近に陛下に背を向けたままじっと立ち尽くしていると、陛下は私の背中の傷をひとつひとつ数えるのだった。
「陛下…」
「美しい傷だ…」
「陛下…」
「…私が退位したら、カルロスに仕えてくれるか?」
古傷が一斉に痛みを訴えた。
「…それだけは、お許しを…陛下…」
私は思わず陛下の前に膝まづき、頭を垂れていた。夜着の裾からのぞく陛下の白い足。ほんの数時間前に私が手当てした足。
「私の王は陛下お一人なのです…」
「アルバ…わが名将よ…」
陛下の手が顎に触れた。軽く引き上げるように。私は、陛下を見上げながら立ち上がり…陛下を見下ろしたとき、唇にあり得ぬ熱を感じた。
…私は思い出す。実らぬ花のひとひら。まだ二十歳になるかならぬかの陛下。一度きり合わせた肌の意外な熱…
今、陛下は私の傷痕ひとつひとつに口づけを落としている。私は、まるで若造のように心震わせながら、立っているのがやっとだ。
「…血のにおいが…するでしょう…?」
ため息を抑えきれず、呟いた。陛下の剣として戦いに臨み血そばえ、喜んで浴びてきた、それは敵の血であり民の血であり…。悔いなどないが、陛下を前にして気後れしているのは何故だ?
「血のにおい…?それがどうした?…私も浴びてきた血ではないか」
そのときの陛下の微笑を私は目蓋に焼き付け、墓場まで持って行こうと心に誓った。
「…陛下…」
目が覚めたとき、陛下は寝台の端に腰掛けて私を見ていた。
朝日に白々と永遠の肖像のように…
愛も悲しみも、生きることの素晴らしさもやるせなさも、総てをじっと、その目に湛えながら。
「わが名将よ……さあ、城に戻るぞ」
その言葉とともに、陛下の瞳に生き生きと朝日が輝き渡り、私は知った。陛下は世界の美しさを取り戻したのだと。
いや…陛下は世界の美しさを忘れてなどいなかったのだ。
世界はわが王フェリペ二世陛下のためにあるのだから。
end
2013.04.29