Charon

□漆黒の夜
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『与平、ついてきてくれるな?』

旦那様をお救いするために旦那様を追ってゆこうというあの御方から、そう言われたときの心の震えを私は、緊迫した状況で僅かでも頼みにされたことの嬉しさだと思っていた。

折から、あの御方の友を思うお心の深さに触れるごとに、あの御方に寄せる信頼はとても大きくなっていたのだ。
有り体に言って、私はそのとき誰よりもあの御方を信じており、その信じる御方から、他の誰でもなく自分が『ついてきてくれ』と言われたことが嬉しかった。

そう思っていた。


…結局、旦那様をお救いすることはできなかった。
いや、そうではない。
あの御方のなさりようは、あのとき、旦那様にとって最も望ましいことだったのだ。

命を長らえるという意味では、旦那様をお救いすることは誰にもできなかっただろう。
あのとき、あの御方だけが真の意味で旦那様をお救いすることができたのだ。


そして私は…

今、丹波屋の手代としてあの御方の下にある私は今…あの御方に、あの御方のお心に、ほんの芥子粒ほどでも構わないから私のことを、お心に留めてもらいたいと切望しているのだ。

あのときのように、『与平、ついてきてくれるな?』と、お声を掛けてもらいたいのだ。


…ある夜、番頭さんに頼まれた用事のために、私は旦那様の座敷へ赴いた。お声を掛けても返事がないので襖を開け座敷に入ってみると、旦那様は文机に伏したまま眠っていた。

お疲れなのだ。
私は風邪を引いてはいけないと、傍に落ちていた羽織を旦那様の肩に掛けようとして、その文机の上に投げ出された旦那様の手の中に、懐かしい鬢水入れを見出だした。

「旦那様の…鬢水入れだ…」

旦那様…忠兵衛様の…

そのとき、旦那様…八右衛門様がぱっちりと瞼を開けて、その黒い、黒い目で私を見つめた。

「旦那様…お風邪を…引いてしまいます」
「…与平、お前、その鬢水入れは…」
「申し訳ございません…!つい手に取ってしまったのです…!」

知らず私は八右衛門様の手から鬢水入れを取り上げていたのだ。
慌てて鬢水入れを文机の上にお返しし、額づいて、私は肩を震わせるしかなかった。

「かまへん、かまへん…。それは忠兵衛が私に預けた物だよ。お前、覚えているだろう?」
「忘れることなど…あるはずがございません…!」

私は額づいたまま、顔を上げることができなかった。

八右衛門様のお心を思うと、胸が詰まって声を出すのも勇気がいった。

八右衛門様は、銀五百両と見せ掛けたこの鬢水入れを忠兵衛様から受け取ったことも、忠兵衛様のために、忠兵衛様を新町から閉め出そうとして、却って追い詰めてしまったことも心底悔いていた。

私はそれを知りながら…

私はこの鬢水入れを手に取ってしまったことを申し訳なく思い、額づいて、顔を上げられずに、いるのだ。

「与平、もう顔を上げないか」

八右衛門様の手が私の肩に置かれ、また離れて…その手が頬に触れるのを感じ、私は顔を上げた。

そこにあった黒い目は、私を見つめる八右衛門様の黒い目は…深い、深い、夜の色。

この夜に呑み込まれたい…
この御方を、背負われたその業ごと抱きしめて、この夜に溺れて沈んでしまいたい…

抗いがたい衝動に私は強く目を閉じて、また額を畳に擦りつけ張り裂けそうな胸の痛みを殺そうとした。

「与平」

八右衛門様が私の名を呼んだ。

「…旦那様!」

息ができないほどの苦しさに堪えきれず振り仰げば、じっと私を見つめる八右衛門様の漆黒の凪いだ目に出会った。

「与平…、お前、何を迷っているんや?」
「旦那様…」
「お前は、あのときからずっと、私についてきてくれているんやろう…?」

八右衛門様の漆黒の瞳は強く迷いなく私を見つめている…
この御方は…、あのときからずっと…?私は八右衛門様に…?

「旦那様…私は…」
「鈍い男やなあ…」

八右衛門様はふっと笑い、私の胸をとんと押した。
畳にそのまま仰向けに倒れ、私は、気づけば、唇に生温かさを感じながら、胸の上に重みを感じながら、駆け巡る血の奔流に総毛立ちながら、歓喜にうち震え、愛しい御方を抱きしめていた。



月はなかった。
星もなかった。
漆黒の夜だった。

鳥も啼かず、風の音もしない。

ただ、腕の中の
愛しい愛しい御方の安らかな寝息だけが、
私の耳を、心を、震わせていた…





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