ROMA

□水鏡
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雨の音がすると思った

夢現に…
花の香りをかいだ

甘い複雑な
異国の花の香り
…彼女の香りだ


はっとして目が覚めた


薄明るい闇にぼうっと白い
彼女の額が間近にあった


…まっつさん…


雨が降っている…


心拍が上がり呼吸が早くなる。
何故、この人がここにいるのか。
瞬間、長い睫毛を顫わせて閉じた瞼が開かれ、漆黒の深い眼差しに射抜かれた。

「…何してんですか?」

声が掠れる。間抜けな言葉だ。
彼女は眠たげにゆっくりと瞬きをして…
心持ち眉をしかめ、困ったように微笑する。

「何してるって…自分のベッドで寝てるだけやけど…」

起き上がり伸びをする。

「ちぎ…昨日のこと、何も覚えてへんの?」

くすりと笑う。瞳がちらりときらめく。
自然体だ。私だけがどぎまぎしている。

「昨日って…」

心臓が一瞬止まった。
自分の部屋ではない。この花の香りは…

そうだ、昨日は稽古場を出たところで偶然出くわした彼女たち二人に遅い食事に誘われたのだ。
彼女たち…桂さんとまっつさんに、『親友』役三人で打ち上げをしよう、と。

「記憶なくすほど飲んでるなんて気ぃつけへんかったわ」

まっつさんは困ったように笑っている。
ひどい頭痛と昨日の記憶の靄の中から、不意に謂れのない悲しみが漏れ出てくるようだ。

「…ちぎ、泣いてるん?」

振り返った彼女は少し驚いたように私の顔を見つめる。

「泣いてませんよ」

つっけんどんな自分の声にたじろぐ。まるで怒っているように聞こえたろう。
…彼女のように話せたら…

「昨日、言ったこと、本気やったん?」

静かな、いたわるような、耳に心地好い声に心が沈む。
昨日、私はこの人に何を言ってしまったんだろう…

思い出せないことで、余計に情けなく、ふて腐れたように押し黙ったままの私を前に、彼女は微笑しつづけていた。
少し面白がっているような、けれど、どこまでも優しい微笑…

ついに彼女がくすくすと笑い出す。

「あんなぁ…紳士の館に出たいって、ぐずってた」

頭に血が上る。
彼女は私の前に立っていて、彼女のベッドに座ったままの私を声なく笑いながら見下ろしている。

「私とキスシーンしたいって…ぐずってた」
「ぐずってたとか何回も言わないでください」

恥ずかしくて、両手で頭を抱えて顔をあげられずにいた私の手首をそっと掴んで、彼女はもう笑ってはいない。

「私が桂の役でええ?」

切れ長の大きな瞳がきらめいて、私の目の前で長い睫毛が顫えた。

唇に生温かい柔らかな感触…
稽古場で見た仕種そのままに、彼女は私の手首を掴んで私の唇にキスしていた。

「ちぎも…キタロウとキスしてんの…?」

それは、どういう意味なのか?ただ芝居のことを聞いたのか。それとも、ほんとのキスの話なのか。
『ちぎも』って…まっつさんも桂さんとほんとにキスしてるってこと?

混乱して何も尋ねる前に再び唇を塞がれていた。
甘やかに…頭の芯が蕩けるような口づけ…


花の香りが…


あの謂われのない悲しみを
覆い隠そうとするかのように

しめやかに
花の香りが漂う部屋で

抱きしめあって眠りに堕ちる
昨日の夢の続きを見ていた


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