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 一週間留守にして帰って来てから、晴香は本当によく身を寄せてくるようになった。
 しっかりと抱きついて来たのはあの日だけで、あとはこうしてただくっつくだけ。
 躊躇うようにそっと、伺うように静かに。



 彼女は知らないだろう。



 火のような激しい感情で、骨が軋むほど抱き締めたくなるのを。
 
 凍りつく孤独な感情で、全て拒絶して自らの殻に篭りたくなるのを。

 誘われているのか、試されているのか。

 強烈なフラストレーションがこの身を焦がすのを、もうずっと耐え続けている。
 八雲は胸に溜まる熱い塊を放出するかのように静かに長く息を吐くと、躰に押し付けられている茶色い頭を少し乱暴に撫でた。





 映画のクレジットの音楽だけがゆっくりと部屋を流れていく。
 やがてそれすら止み、テレビ画面では既に配給会社のロゴが浮かび上がり、そしてそのまま暗転する。
 壁に掛かっている時計の音だけになった頃、晴香がぽつりと呟いた。

「…来ないね」

「ん?」

「今日、誰も来ないね。いつもだったら、もうとっくに誰か乱入してるのに。どうしたのかな?」


 そういえばそうだ。
 確かにいつもは誰かしらが人の名前を大声で呼びながらリビングに雪崩れ込んで、酒盛りがピークになっている時間だ。
 なのにこの静けさ。もう今日は誰も来ないのだろう。

「これが普通の筈だけど、いつもがいつもだから…逆に皆に何かあったのか心配になっちゃうね」

 そう言われて八雲は壁に掛けてある時計を振り返った。短針は真上より少し前を示している。





「……しまった」

「え?」




 八雲は晴香の両腕を掴み、ゆっくりと自分の身体から引き離した。


「八雲君?」

 ふら、と晴香の身体が揺れる。



「…もう離れろ」

「どうして?」

「もうすぐ夜中だ、流石に今日はもう誰も来ない。君も僕もいつもより酔っている。この状況で男女が密着するのがマズイのはわかるだろ?」


 今の今まで、今日も大騒ぎだろうと信じて疑わなかった。よくよく思い返せば、2人だけで飲むなんて事殆どない。特にここ最近…あの、帰宅の日以来は全く無かった。

 ―――油断した。あらかじめ誰かを呼んでおくべきだったのだ。
 アルコールの入った晴香はいつにも増して無防備だと言うのに。



「マズくないよ、大丈夫」

 どこかぽわんとした晴香はそう言って微かに笑みを浮かべる。

「八雲君だから、大丈夫」

 その脳天気な台詞に、八雲は苛立たしげに舌打ちをした。

「また、それか。
 …あのな、僕だって一応男なんだぞ?酒も入ってるし、大丈夫なんて保証は、」
「違う、違うよ」

 言いかけては遮られ、大人しく口を噤む。
 晴香は違うと繰り返しながら、首を何度も左右に振った。その動きのせいでまた上体が揺れて八雲の胸元に倒れこんでくるのを、まずいと思いながらも躰で支えてやる。

「そういう事じゃないの、違うの。
 八雲君が安全だとか、そういう意味じゃないの」

 小さい声に覗き込むと、彼女は笑っているが困惑しているような、形容し難い曖昧な表情をしていた。

「…違うって、何が?」

 問いかけるが返事は返ってこない。
 口を噤んで俯く晴香を見下ろし、八雲は溜息を吐いてもう一度同じ言葉を繰り返した。だが、晴香は顔を埋めて隠し、腕を腰に回すとぴくりとも動かなくなった。






 そのまま暫く、2人してぼうっとする。





 身体のサイドラインに密着している柔らかな凹凸の感触に、つい意識が行ってしまう。
 もう食事も終わり、映画も見終わった。
 ここにいる理由は無いし、もう部屋に戻るべきだ。
 それなのに、わかっているのに戻れない。戻りたくない自分がいた。


 無意識に、腕に収まる晴香の頭の天辺に、そっと唇を押し当てる。

 僕は、何をしているんだ。

 酔いが回って若干ふらつく頭を緩く振り、何とか冷静さを取り戻そうとする。
 離れなくてはとさっきから警告し続ける心とは裏腹に、八雲の手のひらは緩慢な仕草で晴香の背中を撫でる。
 宥めるのとは意味合いの違う触れ方をしているというのに、晴香は大人しく八雲の胸元に頬を埋めたままだ。

 振り払われない手をどうしたらいいのか、全然わからないまま時が進んでいった。







 ずっと保ってきた均衡が、その形を崩していく。






 八雲は溜息を吐くともう一度、晴香を自分から離した。


「八雲君…?」


 揺れる瞳で見上げられて、ただそれだけの仕草に不覚にも胸が高鳴る。
 遠くで鳴っているのが自分の鼓動なのか警鐘なのかわからないまま、酒か羞恥か―――恐らくその両方で薔薇色にそまった晴香の頬を優しく撫でた。
 指の背でまろい頬をなぞり頤に手を掛ける。じっと二色の双眸で見つめると、晴香は僅かに首を傾げた。




「やくも、くん…」


 警鐘が、いよいよ激しく頭の中で鳴り響く。



 アルコールで火照った頬、とろりと潤んだ大きな瞳で見上げられて、頭の中が真っ白になる。
 晴香は何も言わなかった。ただ、切ない瞳で八雲を捕らえているだけだ。それだってきっと無自覚だろう。

 無自覚のまま、誘うのだ。今のように名前を呼んで。

 今まではそれを無視することが出来た。だが、自分の様々な感情を思い知らされた後、しかもアルコールで頭の回転や判断力が鈍っている状態では難しかった。

 晴香の手が動き、顔を包み込む八雲の手のひらにそっと重ねて柔らかい頬がすり寄せる。
 そのまま無言で見つめ合い、やがて少しずつ少しずつ、八雲の顔が晴香に近づき始めた。
 心の中では抗っているのに、まるで引力に負けるように惹かれていく。

 もどかしい程、緩慢に。

 晴香は顎を上げて八雲を見つめていたが、彼の唇が近づくに比例して、その長い睫毛を休ませるようにゆっくりと瞼を閉じた。


 2人の唇が触れる寸前、最後の抵抗とばかりに一瞬だけ八雲が止まる。だが、結局は強い誘惑に抗いきれずに彼女にそっと口づけた。








 一度その甘くて柔らかい感触を味わってしまえば、溺れるのはいとも容易い事だった。
 先程の躊躇を忘れ、その細い腕を撫で上げて背中に手を這わし、しっかりと胸に抱き込んでひたすら晴香にキスをする。


 角度を変えて、何度も。
 触れ合うたびに、強く深く。


 駄目だと思っているのに止まらない。
 今ならまだ間に合うと分かっているのに制御できない。

 ふっくらした唇の間からそっと舌を割り込ませて、晴香の小鳥のように小さなそれに絡ませる。
 拒絶して欲しい。少しでもいいから。そうすればきっと止められる。自分では抑制不能なこの衝動も、晴香なら数秒、いや一瞬で止められるに違いないのだ。
 それなのに彼女は、甘く鼻を鳴らして八雲を受け入れている。貪るように激しく口づけられて息苦しい筈なのに、必死に応えてくる。
 キスの合間に微かに聞き取れる程の声で名を呼ばれ、ぎこちなく柔らかな舌を差し出され、頭の芯が真っ赤に煮え立った。





 警鐘が、鳴り響く。

 頭の中で。

 胸の内で。

 無視出来ない程に大きく。


 なのに、何が正しくて何がいけないのか、わからないくらい全ての感覚が麻痺してしまっている。

 認めてしまいたい。
 いや、認めたくない。
 でも、自分の心も身体も、痛いくらいに叫んでいる。


 彼女が好きだと。
 彼女が欲しいと。


 誰よりも何よりも愛してるから、こういう関係になるのをずっと避けてきたのに、それが今まさに崩れようとしている。
 八雲は残った理性と意思の力を掻き集めて、自らの動きを封じた。瞳を閉じて、身の内に巣喰う激しい情動をやり過ごそうと、歯を食いしばる。
 だが、そんな八雲の首に、暖かい何かが…晴香の腕が優しく巻き付いた。


 瞳をのろのろと開く間に、頬を吐息が掠め、小さなリップ音と共に柔らかな感触が触れてそして離れていく。

 微かな驚きに目を見張ると、今度はそっと、唇を塞がれた。

 晴香からの控え目なキスに、胸に大きく湧き上がったのは間違いなく歓喜だ。それも、例えようもない程大きな。


ゆっくりと唇を離した彼女は八雲を見上げ、僅かな時間見つめた後、甘く蕩けそうな瞳でふわりと微笑んだ。










 ―――ああ、もう…駄目だ。









 胸が甘く激しく疼き、理性が焼き切れていく気がする。
 もう限界だった。
 何も考えられず、八雲は目を閉じると再び晴香の唇を強く塞いだ。






 壁のブラケットが放つ間接照明の薄暗くも柔らかな灯りが、2人の影を色濃く映し出す。



 やがて2人の影が、静寂の部屋に僅かに革の軋む音と共に、折り重なるようにソファの上にゆっくりと倒れ込んだ―――。








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