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 結局、道路の復旧に一週間要した他はさしたる問題も無く、帰路に就く目処が立った。
 携帯の電源を入れると、初期設定のままの待受画面がほわりと明るく浮き上がり、数秒ののちにふっと消えた。





 もうすぐ、夜がやってくる。


 今日の夕方漸く終わった復旧作業、もう一晩泊まって明日の昼間帰るという手もあったが、多少の強行軍だとしても八雲は今すぐに出発したかった。
 それは後藤も同じなようで、幸いこちらが言い出す前に「俺は家族欠乏症だ」と騒いだ挙句、「帰るぞ、八雲!今すぐ!」と喚き散らして八雲の背中をばしばし叩いてきた。
 相変わらず迷惑なおっさんだと軽く咳き込みながら思ったが、後藤の要望は八雲にとっても好都合だった。
 しかしいつもの癖で口は逆の事を言う。


「一日ずれたぐらいで大した差はないでしょう。今から出たって着くのは下手したら夜中だ、迎える方も迷惑ですよ。奈緒だってもう寝てる」

「うるせえな、それでも俺は帰りてぇんだよ!寝顔だけでも見てぇんだよ、いいからガタガタぬかしてないでお前も支度しろ!」

「やれやれ、分かりましたよ」


 …素直じゃないと自分でも思う。
 これで後藤が「帰るのは明日にしようぜ」とでものたまうものなら、ホイホイと泊まる金がそんなにあるのかとか(民宿の人の好意で宿泊代は半額になったが)宿の人の迷惑も考えて下さいとかぐちぐち言って、無理にでも帰らせるつもりだった。


「分かりましたよ。でも安全運転でお願いしますね。後藤さんと心中なんてまっぴらです」

「俺だってお前となんかごめんだ!と言うか、心中自体ごめんだね。死んだら奈緒に会えねぇからな」

 途中から真面目に答えられて逆に言葉に詰まってしまう。
 絶対、ずっと、いや一生言うつもりはないけれど、後藤家が奈緒を引き取って、本当に良かったと思う。今までと違い二親揃っている上に、愛情を注がれて大事に育てられている。
 後藤達にとって血の繋がりがないことなど全く問題ない。
 奈緒の帰るべき場所は後藤の、そして敦子の腕の中だ。多少のハンデはあるものの、きっと普通の子供と同じ様に成長していくだろう。

 この世に存在する、たった1人の血の繋がった家族。
 自分と離れたとしても、幸せになって欲しかった。





 宿の主人に挨拶に行くと言う後藤に倣い、自分も玄関に行く。途中ですれ違ったおかみさんは忙しそうだったのでその場で簡単に謝意を伝える。
 その後2人で帳場まで降りたが、そこは無人で古い時計の時を刻む音だけがいやに大きく耳に響くのみだった。


「あれ?誰もいねぇな…」

「取り敢えず外を見てきます。また外を掃いているのかもしれない」

 宿の主人は庭木をいじるのが趣味という事もあり、玄関や庭は主人自らがよく掃除をしている。
 八雲はそれを何かの拍子に宿の娘から聞いて知っていたので、探しに行こうと玄関に向かった。


「そうか、じゃあ俺はちょっと板場を見てくる」


 そう言って背を向けた後藤と別れ、八雲は幾分擦り切れたスニーカーを履いて外に出た。








 日がもう傾いて辺りは大分薄暗い。手入れの行き届いた小さいけれど美しい庭に出ると、外の水場で仕事をしているこの家の娘を見つけた。

 この民宿は、というか大体がそうなのだろうが家族だけで経営しており、この家の長女の香苗も父と母を手伝って働いている。
 香苗は本が好きで仕事の合間にも暇さえあれば本を読み、町の図書館にも足繁く通うような所謂文学少女で、滞在中八雲とも色々な著者の話をした。
 真面目で丁寧な彼女の給仕は快く、気配りが行き届いていて、両親もそれを誇りとしているようだった。


 良い家族だと、思った。





「すみません、ご主人が何処にいるか知りませんか?」

 後ろから声を掛けると、香苗はびっくりして水の入った小さなバケツを取り落とす。
 飛沫を飛ばし転がったそれを慌てて拾い上げると、彼女は八雲を振り向いた。

「あ、斉藤さん!」

「驚かせてすみません。もう出るからご主人に挨拶をと思ったら、帳場にいなくて。何処にいるか知ってたら教えて欲しいんです」

「挨拶…?はい、あの、この時間なら父は板場にいると思います」

「そうですか、ありがとう」

 板場ならば後藤が向かった筈だ。今頃会えて挨拶しているだろうから、行ってみよう。
 玄関に戻る前に目の前の女性にも挨拶しておこうかと思案していると、香苗にふいに名前を呼ばれる。

「あのっ…!」

 その切羽詰まったようなか細い声に顔を上げると、思い詰めた瞳に出会った。先程と、というよりいつもと様子が違う。八雲は不思議に思い、心の中で眉を顰めた。


「あのっ…、もう…帰られるんですか?」

「え?ああ、やっと道路が復旧したみたいだし、もうすぐ。香苗さんにもお世話になりましたね、ありがとう」

 軽く頭を下げて礼を言う。香苗には本当に親切にしてもらったから、社交辞令ではなく心からお礼の言葉がでた。それを聞いて香苗の顔が少し歪む。


「こんな急に…せめてあと一日二日、ゆっくりしていけばいいのに…」


 この一週間で大分気心の知れた相手となった彼女は、その肩を落として項垂れている。
 そして困ったような、慌てているような表情。
 いつも笑顔で、しっかりしている彼女にしては珍しい。尤も、八雲は仕事中の彼女しか知らないけれど。 

 香苗は確か20歳になるやならずやというところだった筈だが、女性というよりも女の子という方がしっくりくるような、あどけない顔をしていた。



 …そう、まるで出会った頃のあいつみたいに。



 くるくると忙しく変わる表情も、栗色の髪も柔らかな仕草も、香苗は晴香を彷彿とさせた。
 そのせいか何となく彼女に気を許し、自分にしては割りと親しい態度をとっていたと思う。 共通の話題が多かった事も、気安くさせる原因の一つだった。



「いえ、長居しすぎましたしね。それにあの熊…じゃなかった、上司が今すぐ帰ると騒いで煩いんですよ。娘に会いたいと」

「あ…ああ、そう言えば娘さんの事、大層可愛がってらっしゃるみたいですものね」

「まあ、目に入れても痛くないという感じですね。別に良いけれど、それに付き合わされるこっちの身にもなって欲しいものです」

 やれやれと苦笑してみせると、そうですねとぎこちない笑みで返してくる。やがて香苗は両手を腹の前で握りしめ、何かを決心したように頷いた。




「斉藤さんは…その…斉藤さんに…、早く帰りたいと思わせる人はいないんですか?」





 帰りたいと、思わせる人?




 香苗の問いかけに、八雲は一瞬言葉に詰まった。












 太陽はあと少しで完全にその顔を隠し、空は藍色と茜色の入り混じった世界を醸し出す。
 山から吹き下ろす風が辺り一面平行になぎ払うように駆け抜けて、八雲の漆黒の髪を揺らし白いシャツを翻していく。


 八雲は暫しの間無言で風にその身を任せていたが、やがて肩の力を抜いて薄く微笑んだ。





「…秘密です」





 今度は香苗が言葉を詰まらせる。
 物憂いがどこか優しい表情に見惚れて黙り込んだ彼女に、八雲は気付かなかった。
 勿論、その思い詰めた顔にも。
 八雲の心の中は違う事で一杯で、目の前の彼女の事も、夕暮れ時の風景も何も見てはいなかった。


「嫌です」


 鋭い一声が思考を破るように耳を打った次の瞬間、我に帰った八雲の胸に何かが飛び込んで来た。


ドンっ!!


 完全にふいを突かれて、強い衝撃を受け止めきれず数歩たたらを踏む。それでも脚に力を入れてよろめいた身体を立て直すと、困惑して香苗の小さな頭を見つめた。


 彼女が精一杯なのは、震えた声と身体で分かる。必死な彼女を示すように、背中に回された腕はぎゅっときつく八雲を抱き締めていた。



 …いい子だと思った。
 可愛らしく、素直で、誰からも愛されるような娘。
 八雲の左眼を始めはこわごわと見ていたが、慣れるにしたがい気にせずに真正面から見つめてくるようになった。

「帰らないで下さい…!好きなんです、あなたが」

 ぎゅっとしがみつく、小さく柔らかい身体。
 さらさらの、茶色い髪に白い肌。
 鼻を擽る甘い匂い。

 一生懸命想ってくれたのが分かる、必死な指先は好ましかった。

 でも…。




「ごめん」




 細い肩に手を置くと、八雲はそっと自分の身体から彼女を引き剥がした。
 優しく、でも確かな拒絶をもって。


 似ている、でも違う。

 抱きつかれた時に感じたのは、違和感。

 手に入れる気がないくせに、それでも切実に求めているのは、たった1人だけ。
 矛盾だらけで、でも本当に欲しいのは、あの…。




 …知ってたよ、そんな事。



 八雲は自嘲気味に微笑むと、その肩から手を離して距離をとった。
 受け入れる気はさらさら無いけれど、気持ちはありがたい。

「…僕は帰るよ。色々と、ありがとう」

 八雲はぽろぽろと涙を流す彼女の頭を軽く叩くと、俯いたまま動かない彼女から背を向けてその場を立ち去った。


 前を見て歩くその瞳には、もう香苗は映っていなかった。
















***********








「は〜〜〜…、やっと着いたな…」

 車内に後藤の溜息が盛大に響く。

「着いたって、ここは僕の家で後藤さんの家じゃありませんよ…って何で降りるんです?」

 八雲のマンション下まで来ると、後藤は邪魔にならないところに車を停め、さっさとシートベルトを外して外に降りた。

「んあー!」

 両手を頭上高くで組んで、ぐっと伸びをする。
 休憩を1度とっただけで後は延々と運転し続けてきたのだから、流石に身体が強張ったのだろう。

「うるさいですよ後藤さん、近所迷惑です」

 肩を廻して身体を解す後藤に文句を言ってみる。最近はとりあえず何か一言は突っかかっておかないと気が済まない。
 というより落ち着かない。
 向こうも慣れきってしまったようで、寧ろ八雲が何も言わないとわざわざ顔を覗き込んで聞いてくる。


「お前がちったぁ運転変わってくれりゃ俺だってこんなに疲れる事は」
「あ、じゃあまた月曜日に」
「無視かよ!!」

 付き合ってられない、とエントランスにさっさと向かうと驚いた事に後藤もついて来た。

「…何です?ついて来ないでください気持ち悪い」

「お前についてってるんじゃねぇよ、俺は晴香ちゃんに会いに行くんだよ」

「あいつに何の用です?人の家に夜の訪問は…」
「いいよな?まだ9時だしよ。こんなに早く着いたのは俺が頑張って運転したからだよな?」

「…元警察官とは思えぬ程のドライビングテクニックでしたよ。安全運転をお願いした筈ですけどね」

「いいじゃねぇか!お陰で早く帰れたんだから!男が細けぇ事気にしてんな、ほら行くぞ!」

「細かいとかの問題じゃありませんよ、命懸かってるんですから」



 エレベーターに乗り込みながら、一体晴香に何の用だと再度尋ねると、後藤は妙に優しく笑った。

「お前、あの子の番犬みたいだな…」

「何ですかそれ」

「そのままの意味だよ。…晴香ちゃんにはあれだ、敦子に『八雲君を一週間も借りたんだから謝ってきて』って言われたんだよ」

 エレベーターを降り、見慣れた廊下を並んで歩く。隣で歩く熊が無駄に大きいせいか、いつもより狭く息苦しく感じる。
 このおっさんは本当に有害だ。用が済んだらさっさと帰って欲しい。
 これ見よがしに溜息を吐きながらいつも通りインターホンを一度鳴らし、ジーンズのポケットから鍵を取り出す。

 今日帰る事は、後藤から敦子を通して晴香に連絡がいってる筈だった。八雲の携帯は、こまめに電源を切っていたにも関わらず、充電がなくなってしまったからだ。

「まあ今回は不可抗力だが確かに借りっぱなしだったしな、碌に説明なんぞしそうもないお前に変わって俺が…」

「結構です。大体借りた借りたって何ですか。僕は別にあいつものものじゃ…な、」


 カシンと小気味良い音をたてて鍵を開け、後藤の方を見ながら一歩玄関に足を踏み入れると、聞き慣れた足音に振り返る間も無く突然身体に衝撃が走る。





 どん!!


「!!」








 一瞬の既視感、そして消える違和感。






 どくんと大きく心臓が跳ねる。


 背中に回された細い腕、鎖骨を擽るふわふわの髪。
 身体に押し付けられる、しなやかで柔らかい肢体。
 頼りない肩も甘い匂いも全て、顔が見えなくても誰のものかすぐ分かるほど…よく知っている。





 胸に収まるものの正体を悟った瞬間、八雲は自身の鮮やかな感情に息を飲んだ。







 








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